こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年6月28日 火曜日 写真日和 6月1~5日

2011-06-28 22:10:07 | 写真日和
6月1日 水曜日 有明に展示会に行った帰り、秋葉原に移動


かつて殺傷事件のあった交差点はもう既に影も形も変えている。
記憶喪失都市東京。


その近くに咲く、水の花あじさい。


一方で、昔から変わらず在り続けるみつ豆屋さん「伊万里」。


御茶ノ水よりまで歩き、橋の上から須田町方面を見る。


夕暮れの灯。


歩いてアメ横まで。

6月2日 木曜日
 

夜のナポリタン。

6月3日 金曜日 


浅草の夜の美脚。


隅田公園から見る闇。


パチンコ屋に飾られた夜の花にストロボを炊く。

6月4日 土曜日 隅田川


夕暮れ時に飲むビール。


沖縄に行った際に首里城で買ったTシャツを着て。

6月5日 日曜日


メロンちゃん。


古い向島の家屋と花。


花を見て、夏近しと思う。


スーパーにて、雨傘をさすマネキン。


荒俣宏さんのNHK-ETVを見る。
山折哲雄氏との対談。


科学の「業」。。。


おぼろげなる福島原発。
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2011年6月28日 火曜日 「タイム」

2011-06-28 08:21:10 | 雑記帳
さくりんさんへ

「あっという間の週末」というより、月→金の疲労の中で、金曜日夜更かしして、土日寝過ぎて抑鬱を強め、時間の胎内サイクルが壊れて月曜日を向かえる。
こんな意志の弱い・馬鹿を繰り返しをしている。
週を繰り返すにつれ、また心身を病んだ状態に逆戻りしている気がする。

私に必要なのは、実は、クスリでは無く、強固な意志なのだろうことを知っている。
しかし、昨日は昨日でダラダラと周囲に流される無駄な時間にいらつきながらも付き合ってしまう。

ピンク・フロイドの「タイム」が余りにも禁忌に触れ(それを言ったらおしまいだろう)、核心ずばりをそのまま語る事に「良い曲」も「悪い曲」もない。

『…おまえが死んだあとに残されたのは、書きなぐられた予定表だけだ』。

これは、太宰治の「人間失格」であり、それを下地に書かれた三島由紀夫の「仮面の告白」、または、安部公房の「箱男」に近しい哲学的作品を匂わせる。



こういう感覚、真理に目覚める瞬間は、幼少期からハタチ近くまで悩んだ離人感覚を想起させる。
そのとき私は、それを「キチガイになってしまったのかもしれない」と幼少期の頃、思っていた。
絶望感が襲ってきて、「こんな鏡を見ないと自分の姿すら見えない肉体の中に潜んで、なぜ自分は自分として在らねばならないのか?
自分は数十年後に、確実に死ぬのだ。
とすれば、生きることは死に向かっていることと変わらないじゃないか。」と気づいた日。
自分という異物感と居心地の悪さを感じながらも、その宿に居続けねばならないジレンマ。

それが私だけの問題ではないと知るには、相当な時間を要してしまった。

多くの本やアーティストとの出会いを糸口に、この悩みの源泉を次第に理解していく。
1980~1981年の坂本龍一へのシンパシーというのも、彼のその頃のこれらの苦悩(「こんな音楽を聴いて楽しいかい?」[『フロントライン』の一節])を共有化する事から生まれた。



幼少期からの長い間、要は、それは飛蚊症のようなもので、蚊が飛んでいるようなゴミが視界に在る事に悩むが、他のことに気を取られるうちに忘れてしまう。
そんなように。

これは、そんな錯覚に紛れる技を医学とした森田療法という行動哲学ともクロスする。

しかし、森田療法を解釈する半分の人を、私は誤った解釈として否定するつもりだが、それを言語化することは難しい。
誤釈する解釈の在り方は、概念で「あるがまま…」と念仏のように語るが、それは単なる気まぐれに過ぎない。
やはり底流には死に向かう道が絶えず着々と準備されている事をベースに置かねば始まらない。

この時間という見えない化け物。
その時間を微分し、瞬間の集積として捉え、刹那を掴んだ天才は三島由紀夫だった。
彼の「金閣寺」に膨大に埋め込まれたトラップは、この言語化しづらい「なにがしか」。

彼の作品の中で「金閣寺」が飛び抜けているのは、形として定着する難易度を超えて、言語化した事にある。



私が、ふとよぎったのは昨夏の「ワールドハピネス2010」のあるシーンの自分の感覚。

私は、アートを(兄・MZ師・ハブ噛み師匠除く)知り合いと行くという習慣は無い。
元よりネコの如くの「孤」を生きて来たのもあるが、他人に気を遣い、共に同じ事を味わうなど嘘であり邪魔に思っているから、好きなものはたいてい一人でおもむく。

「ワールドハピネス2010」で、集団的狂騒に場が傾いた刹那、醒めた感覚で周囲を見て「今、この時は、リアルタイムの事実だが、多くの人はこの瞬間を忘れるし、それぞれはそれぞれの時を生きて、まだら模様に死んで(消えて)行く」というイメージ。
そんなシーンが、私に訪れたり離れたりする。
離人感覚。

まるで太宰治の「トカトントン」。

3・11とその後しばらくが、今まで在ったはずの時間の在り方を、瞬時逆転させてしまった事をみんな思い出せば、それが一番近い感覚かもしれない。

いくら他人と時間を共有化した時があろうとも、いくら他人に場の共有を強要されようと、それぞれはそれぞれの生の長さ感覚の時間を生き、一人で死んで行かねばならない。

嘘を言わずに語ると、これは紛れも無い真実である。

***

西部邁ゼミナール (2009年11月21日)


PS : 三島由紀夫の「仮面の告白」を世に出した編集者は、坂本龍一の父親、坂本一亀である。
河出書房の編集者。
不思議な因縁と因果。
コメント (4)
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