細野さんの記事をアップし、2010年、教授の「スコラ」でのYMOの『千のナイフ』に感無量の中、AUの携帯電話から「ギューギュー」と緊急地震速報。
夜中1時。
福島県で、震度5弱という。
もう少しで3・11から3ヶ月という中、震度5弱。
何もかもが3・11以降終わっちゃいない認識を新たにする。
ボクらは、この地震列島の上で寝起きしている、所詮は地球から見ればアリのような存在。。。。
***
日曜日の夜、22:00~23:00NHKスペシャルで細野さんを見た。

細野さんの音楽の旅を1時間で語るなどということは、既に無謀というか冒涜に近い。
到底無理ならば、3・11以降のことに絞った取材で、今の細野さんの姿をより多く見せて欲しかったのが本音。
細野さんの音楽の長い旅を抜粋で簡略的に語るのも、軽々しい態度で非常に不満を覚えたのは事実だった。
救いは、語りがピューパの知世ちゃんだったことくらい。
ニューアルバムである「Hosonova」のジャケットをみて、少し切なくなった。
細野さんの動く姿・写真は、去年の夏の「ワールド・ハピネス2010」でじかに見て以来だったが、何か急に老け込んでしまったように思えてショックだった。
目の上のまぶたのたるみ、あごの感じが全く異なっていた。

細野さんという人は、ただただ音楽だけを考えて生きてきた人である。
カネも名誉も関係なく「オレが坂本だ!言うとおりにしろ」と周囲に傲慢を振りまき細野さんへの嫉妬の塊を持った「もう1人の天才」でもなく、純粋に音楽と共に旅路を歩いて来た人なのだ。
*教授は教授で、ボクなりの愛はあるのだが。。。。
細野さんが創って来た音楽が素敵だったのと共に、音楽だけを糧として生きてきた朴訥としたその存在そのものが、多くの人から愛され続ける。
初めて、幸宏の家に自転車で雨の中遊びに来たという細野さん。
「自転車で来ちゃった」と呆然と立つ細野さんを向かえる幸宏。
そんな逸話自体だけで、細野さんのそのままの姿が頭に浮かんでしまう。
いつも、細野さんの周りには、様々な人々が安らぎを求めた鳥たちのように、いつの間にか集まってにぎやかになる。
そんな人柄が細野さんの存在そのもの。
かつて、95年にNHK教育テレビ・土曜日の夜「土曜ソリトンSIDE-B」(高野寛さんと緒川たまきさんの楽しい番組で、当時、自分は大阪に居て、東京を想いながら毎週楽しみに見ていた)に矢野顕子さんと細野さんがゲストに出た。

アッコちゃんが「世界で一番細野さんのカバーを演奏している」と誇らしげに笑い、細野さんの音楽を語る。
「なんだか・・・細野さんの曲ってかわいいんだよね。
人が忘れてしまいがちな心、些細な小さな想いが込められていて。」
とアッコちゃんが両手で球を包むかのようにして語ったのが印象的だった。
そんな細野さんが、先週日曜日のETV番組の中で、何か少し、もう次の世代に・・・・と言い出したことに寂しさを感じた。
そんな寂しいことは言わないで欲しい。
共にいつまで生きるかは分からないが、とにかく1日でもより長く細野さんには生きてもらって、これからも一緒に音楽を聴き過ごせる時間があらんことを・・・・そう祈ってやまなかった。
***
80年代の盛隆が終わり、迷走に入った87年以降の細野さんを思い出していた。
「SFX」以来のオリジナルアルバム「オムニ・サイト・シーイング」が発表されたのが89年。

【オムニ・サイト・シーイング 1989年制作】
その当時、このアルバム制作過程を収めた番組がNHKで放映されて、見た。
世界の多様なジャンルの人たちとの交流を経て、このアルバムは創られていた。
A面1曲目『エサシ』で、細野さんは日本で録音したエサシ節を持って、ヨーロッパに飛ぶ。
確かパリだったかな?
そこでヨーロッパのアコーディオン奏者が、このエサシ節のラインに沿って演奏をするのだが、全く異なる国の全く出生の違う音楽が重なってハーモニーを生み出した。
その異なる文化の出会いに、スタジオで細野さんは感無量の余り、目を潤ませて「良い。良いね・・・」と小さくつぶやく。
そのシーンが記憶に残っている。
リアルタイムの当時は、お恥ずかしながら、自分の心に響かなかったこの曲。。。
しかし、その後90年代になって、大阪の地でこの『エサシ』を聴いて、この曲の良さに気付いたのだった。
細野さんの音楽というのは大抵そんな具合だ。
余りに触覚がするどいので、自分の感性では「ぱっ」と目の前に新たなごちそうを出されても即座に飲み込めず、数年経ってその良さがじんわりやってくる。
いつも、細野さんの音楽との温度は、そんな具合である。
A面2曲目の『アンダドゥーラ』は確か西武か何かのクレジットカードのCMに使われたと思う。
途中から、アラビアの女性ヴォーカルが乗っかるが、かなりポップな曲だった。
89年のNHKの特番と89年時点で聴いた「オムニ・サイト・シーイング」は、自分の中には、その時点では余り響かなかった。
当時、「ワールド・ミュージック」なるコトバが盛んにどこそこで聞こえ、世界の音楽のゴッタ煮が流行だったが、そういうものにも関心は無かった。
***
91年4月~96年3月の5年間、私は大阪に居た。
そこに大学からの友人=ハブ噛み師匠は、自分の創ったカセットテープや、大阪では放映していない番組などをヴィデオテープに収めて送ってくれた。

【「ホソノ・ハレルヤ」における『エサシ』】
その中で、細野さんを大々的に特集したBS特集「ホソノ・ハレルヤ」なる番組のテープを送ってくれて、「えらいこっちゃ!!!!」と熱心に見た。
当時、まだ、今のようにBSを見る人が一般的では無かったので、ハブ噛み師匠のようなBSを見られる人に録画を頼んでいた。
この「ホソノ・ハレルヤ」は3夜に渡った、実に中身の濃い映像に満ちていた。
今でも宝物のヴィデオテープ「ホソノ・ハレルヤ」。
そこで、数年ぶりに聴いた「エサシ」でやっと「ああ、細野さんが表現したかったのはこういうことだったのか」と心で理解し好きになった。
私個人「オムニ・サイト・シーイング」で大好きな曲は、B面最後の2曲。
「コレンドア」から「プリオシーヌ」への流れは、このアルバムでのツボである。
「コレンドア」には、当時、細野さんが影響を受けていたネイティヴ・アメリカン、先住民であるインディアンが、たきぎをくべている夜明け時の妖しさを感じ、「プリオシーヌ」には、この後さらにアンビエントへ傾斜していく細野さんの感じていることが言語化されている。
「太洋感覚=オーシャニック・フィーリング」と細野さんは当時表現していたが。
それが、次第に世界を繋ぐ海を通じて伝わるかのように、様々なエリアで「アンビエント」という水面下での音楽の発生に繋がっていく。
その「アンビエント」は、元々はブライアン・イーノが提唱したものではあったが、その流れとは異なっていた。
***
このアンビエントの流れの中、細野さんが頂点に達した作品を、ボクは「メディスン・コンピレーション」だと、勝手に思っている。

このアルバムは、シンクロニシティそのもので、阪神淡路大震災の前後に、毎晩毎晩繰り返し聴いていた。
ここには、地球のあたかも魂のような音が収められている。
震災の影響もあって、より深く細野さんの音楽を聴きこむことが出来た作品だった。
***

1996年4月にTOKIOに戻った自分は、職場でFMを流すことだけは許されていて、細野さんの穏やかな番組「デイジー・ワールド」を時間になるとチューニングして、内緒で録音していた。
仕事そっちのけで。。。。。
デイジー・ワールド 1998年放送より(ゲスト:高橋幸宏)
下記の「デイジー・ワールド」は、今に繋がる、細野さんと坂本龍一の間の壁というか、教授の方の壁が崩れ、やっとお互いの間の齟齬が溶けて、やっと融和した歴史的瞬間。
YOUTUBEのコメントにこんなステキなことを書き込んでいる人が居たので紹介。
『こういった会話をあまりせずに、YMO時代の数々の名曲を作り上げてきて、
なおかつライブでのあの息の合ったグルーヴを生み出してきたのかと思うと、
ふかりの天才のすごさに改めて圧倒されました。
天才とは、こういう人たちのことを言うんですね。
2人ともお互いを通じて、音楽と戦ってきたんですね。
本当にかっこいい人たちです。』
デイジー・ワールド 2000年放送より(ゲスト:坂本龍一)
***
・・・・そうして時代は、21世紀に移ろい、突入していく。
ソロで行き詰っていた幸宏が「何も制限なしで、何か新しいことをしたいな、細野さん。」
と持ちかけられた同朋に、細野さんはスケッチ・ショーを新たにプレゼント/結成する。

【アルバムに収録された「ワンダフル・トゥ・ミー」は、教授の住むニューヨークと、スケッチ・ショー2人の東京とデータ送受信でやりとりをしながら創られた実質YMO3人の競作】
・・・・そして、やっと氷が溶け合い、坂本VS細野のYMO構図が和解し合い、3人がやっと、もう何もわだかまりも捨てるものも無い姿で向き合い、自然と集まっていく。

2010年「スコラ・音楽の学校」で演奏された『千のナイフ』。
アルバム「BGM」のイントロを用いた余りのかっこよさに卒倒しそうなスタジオ・ライブ。
まるで「ワールド・ハピネス2010」のための練習であるかのような前哨戦。
ギターを弾くは、小山田くん。
(永遠に永遠に永遠に続く・なんたって30年分想い出がありますから)
夜中1時。
福島県で、震度5弱という。
もう少しで3・11から3ヶ月という中、震度5弱。
何もかもが3・11以降終わっちゃいない認識を新たにする。
ボクらは、この地震列島の上で寝起きしている、所詮は地球から見ればアリのような存在。。。。
***
日曜日の夜、22:00~23:00NHKスペシャルで細野さんを見た。

細野さんの音楽の旅を1時間で語るなどということは、既に無謀というか冒涜に近い。
到底無理ならば、3・11以降のことに絞った取材で、今の細野さんの姿をより多く見せて欲しかったのが本音。
細野さんの音楽の長い旅を抜粋で簡略的に語るのも、軽々しい態度で非常に不満を覚えたのは事実だった。
救いは、語りがピューパの知世ちゃんだったことくらい。
ニューアルバムである「Hosonova」のジャケットをみて、少し切なくなった。
細野さんの動く姿・写真は、去年の夏の「ワールド・ハピネス2010」でじかに見て以来だったが、何か急に老け込んでしまったように思えてショックだった。
目の上のまぶたのたるみ、あごの感じが全く異なっていた。

細野さんという人は、ただただ音楽だけを考えて生きてきた人である。
カネも名誉も関係なく「オレが坂本だ!言うとおりにしろ」と周囲に傲慢を振りまき細野さんへの嫉妬の塊を持った「もう1人の天才」でもなく、純粋に音楽と共に旅路を歩いて来た人なのだ。
*教授は教授で、ボクなりの愛はあるのだが。。。。
細野さんが創って来た音楽が素敵だったのと共に、音楽だけを糧として生きてきた朴訥としたその存在そのものが、多くの人から愛され続ける。
初めて、幸宏の家に自転車で雨の中遊びに来たという細野さん。
「自転車で来ちゃった」と呆然と立つ細野さんを向かえる幸宏。
そんな逸話自体だけで、細野さんのそのままの姿が頭に浮かんでしまう。
いつも、細野さんの周りには、様々な人々が安らぎを求めた鳥たちのように、いつの間にか集まってにぎやかになる。
そんな人柄が細野さんの存在そのもの。
かつて、95年にNHK教育テレビ・土曜日の夜「土曜ソリトンSIDE-B」(高野寛さんと緒川たまきさんの楽しい番組で、当時、自分は大阪に居て、東京を想いながら毎週楽しみに見ていた)に矢野顕子さんと細野さんがゲストに出た。

アッコちゃんが「世界で一番細野さんのカバーを演奏している」と誇らしげに笑い、細野さんの音楽を語る。
「なんだか・・・細野さんの曲ってかわいいんだよね。
人が忘れてしまいがちな心、些細な小さな想いが込められていて。」
とアッコちゃんが両手で球を包むかのようにして語ったのが印象的だった。
そんな細野さんが、先週日曜日のETV番組の中で、何か少し、もう次の世代に・・・・と言い出したことに寂しさを感じた。
そんな寂しいことは言わないで欲しい。
共にいつまで生きるかは分からないが、とにかく1日でもより長く細野さんには生きてもらって、これからも一緒に音楽を聴き過ごせる時間があらんことを・・・・そう祈ってやまなかった。
***
80年代の盛隆が終わり、迷走に入った87年以降の細野さんを思い出していた。
「SFX」以来のオリジナルアルバム「オムニ・サイト・シーイング」が発表されたのが89年。

【オムニ・サイト・シーイング 1989年制作】
その当時、このアルバム制作過程を収めた番組がNHKで放映されて、見た。
世界の多様なジャンルの人たちとの交流を経て、このアルバムは創られていた。
A面1曲目『エサシ』で、細野さんは日本で録音したエサシ節を持って、ヨーロッパに飛ぶ。
確かパリだったかな?
そこでヨーロッパのアコーディオン奏者が、このエサシ節のラインに沿って演奏をするのだが、全く異なる国の全く出生の違う音楽が重なってハーモニーを生み出した。
その異なる文化の出会いに、スタジオで細野さんは感無量の余り、目を潤ませて「良い。良いね・・・」と小さくつぶやく。
そのシーンが記憶に残っている。
リアルタイムの当時は、お恥ずかしながら、自分の心に響かなかったこの曲。。。
しかし、その後90年代になって、大阪の地でこの『エサシ』を聴いて、この曲の良さに気付いたのだった。
細野さんの音楽というのは大抵そんな具合だ。
余りに触覚がするどいので、自分の感性では「ぱっ」と目の前に新たなごちそうを出されても即座に飲み込めず、数年経ってその良さがじんわりやってくる。
いつも、細野さんの音楽との温度は、そんな具合である。
A面2曲目の『アンダドゥーラ』は確か西武か何かのクレジットカードのCMに使われたと思う。
途中から、アラビアの女性ヴォーカルが乗っかるが、かなりポップな曲だった。
89年のNHKの特番と89年時点で聴いた「オムニ・サイト・シーイング」は、自分の中には、その時点では余り響かなかった。
当時、「ワールド・ミュージック」なるコトバが盛んにどこそこで聞こえ、世界の音楽のゴッタ煮が流行だったが、そういうものにも関心は無かった。
***
91年4月~96年3月の5年間、私は大阪に居た。
そこに大学からの友人=ハブ噛み師匠は、自分の創ったカセットテープや、大阪では放映していない番組などをヴィデオテープに収めて送ってくれた。

【「ホソノ・ハレルヤ」における『エサシ』】
その中で、細野さんを大々的に特集したBS特集「ホソノ・ハレルヤ」なる番組のテープを送ってくれて、「えらいこっちゃ!!!!」と熱心に見た。
当時、まだ、今のようにBSを見る人が一般的では無かったので、ハブ噛み師匠のようなBSを見られる人に録画を頼んでいた。
この「ホソノ・ハレルヤ」は3夜に渡った、実に中身の濃い映像に満ちていた。
今でも宝物のヴィデオテープ「ホソノ・ハレルヤ」。
そこで、数年ぶりに聴いた「エサシ」でやっと「ああ、細野さんが表現したかったのはこういうことだったのか」と心で理解し好きになった。
私個人「オムニ・サイト・シーイング」で大好きな曲は、B面最後の2曲。
「コレンドア」から「プリオシーヌ」への流れは、このアルバムでのツボである。
「コレンドア」には、当時、細野さんが影響を受けていたネイティヴ・アメリカン、先住民であるインディアンが、たきぎをくべている夜明け時の妖しさを感じ、「プリオシーヌ」には、この後さらにアンビエントへ傾斜していく細野さんの感じていることが言語化されている。
「太洋感覚=オーシャニック・フィーリング」と細野さんは当時表現していたが。
それが、次第に世界を繋ぐ海を通じて伝わるかのように、様々なエリアで「アンビエント」という水面下での音楽の発生に繋がっていく。
その「アンビエント」は、元々はブライアン・イーノが提唱したものではあったが、その流れとは異なっていた。
***
このアンビエントの流れの中、細野さんが頂点に達した作品を、ボクは「メディスン・コンピレーション」だと、勝手に思っている。

このアルバムは、シンクロニシティそのもので、阪神淡路大震災の前後に、毎晩毎晩繰り返し聴いていた。
ここには、地球のあたかも魂のような音が収められている。
震災の影響もあって、より深く細野さんの音楽を聴きこむことが出来た作品だった。
***

1996年4月にTOKIOに戻った自分は、職場でFMを流すことだけは許されていて、細野さんの穏やかな番組「デイジー・ワールド」を時間になるとチューニングして、内緒で録音していた。
仕事そっちのけで。。。。。
デイジー・ワールド 1998年放送より(ゲスト:高橋幸宏)
下記の「デイジー・ワールド」は、今に繋がる、細野さんと坂本龍一の間の壁というか、教授の方の壁が崩れ、やっとお互いの間の齟齬が溶けて、やっと融和した歴史的瞬間。
YOUTUBEのコメントにこんなステキなことを書き込んでいる人が居たので紹介。
『こういった会話をあまりせずに、YMO時代の数々の名曲を作り上げてきて、
なおかつライブでのあの息の合ったグルーヴを生み出してきたのかと思うと、
ふかりの天才のすごさに改めて圧倒されました。
天才とは、こういう人たちのことを言うんですね。
2人ともお互いを通じて、音楽と戦ってきたんですね。
本当にかっこいい人たちです。』
デイジー・ワールド 2000年放送より(ゲスト:坂本龍一)
***
・・・・そうして時代は、21世紀に移ろい、突入していく。
ソロで行き詰っていた幸宏が「何も制限なしで、何か新しいことをしたいな、細野さん。」
と持ちかけられた同朋に、細野さんはスケッチ・ショーを新たにプレゼント/結成する。

【アルバムに収録された「ワンダフル・トゥ・ミー」は、教授の住むニューヨークと、スケッチ・ショー2人の東京とデータ送受信でやりとりをしながら創られた実質YMO3人の競作】
・・・・そして、やっと氷が溶け合い、坂本VS細野のYMO構図が和解し合い、3人がやっと、もう何もわだかまりも捨てるものも無い姿で向き合い、自然と集まっていく。

2010年「スコラ・音楽の学校」で演奏された『千のナイフ』。
アルバム「BGM」のイントロを用いた余りのかっこよさに卒倒しそうなスタジオ・ライブ。
まるで「ワールド・ハピネス2010」のための練習であるかのような前哨戦。
ギターを弾くは、小山田くん。
(永遠に永遠に永遠に続く・なんたって30年分想い出がありますから)