幼稚園児の頃、古くて狭い三ノ輪の家。
その廊下で遊ぶ傍ら、冷蔵庫の上にのっかったラジオからは、一日中、FMが流れていた。
それが、我が家の習慣だった。
買い物に行って、誰も居ない家の中でも、ラジオは鳴り続けていた。
ほこりをかぶりながら、アンテナを伸ばした黒いラジオ。
ランチジャー(肩から掛けるお弁当箱)のような大きさのラジオ。
それは、日々の暮らしの風景の中に、いつもあった。
小学生の頃の歌謡曲&アイドル中心的世界から、無理矢理それらを放棄して、過剰に意識して「洋楽」を聴き出した中学1年生の始まり。
カーペンターズ・ABBA・クイーンなど、日本でも「WELCOME」なバンドは知っていたし、70年代のヒット曲は知っていたが。
そこから、毎週「FM雑誌」を買い、ヒットチャートを眺めたり、FMのエアチェックをしたり。。。の日々が始まった。
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一方、小学3~4年生の頃、塾の行き返りにイヤホンを付けて、手に握りしめたトランジスタラジオ。
聞いていたのは、総武線が水道橋を通過する中見える、夜に光を放った後楽園球場で行われていたナイターだったり。。。
ある日に発見した、TBSラジオの番組「一慶・美雄の夜はともだち」だったり。
大好きだった小島一慶さんの「夜はともだち」。
そのパーソナリティは、悲しくもその後移ろい、番組内のコーナーも移ろっていった。
そんな中で、「スネークマンショー」が始まった。
その頃は、既に自分は中学生だったのかもしれない。
ギャグと音楽が交互に入る不思議な放送。伊武雅刀さんの太く低い語り口、小林克也さんのネイティヴを思わせるペラペラの英語。
その合間には、グラビア雑誌「GORO」や写真雑誌「写楽(しゃがく)」、そして角川文庫&角川映画のラジオコマーシャル。
全てが「密」なる時を刻んでいた。
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そんな折、「スネークマンショー」が、唐突に終わる事となった。
最後の一週間さまざまなヒト(プラスチックスや糸井重里等々)が、電話越しにコメントを寄せる。
それだけは録音したカセットテープが残っている。
その終わりの頃、一週間通じて(上とは別の週だったか?)ローリング・ストーンズの新譜「エモーショナル・レスキュー」に入った曲の数々が、ギャグや会話の合い間に掛かった。
自分が初めて全曲聴き通したローリング・ストーンズの作品が、この「エモーショナル・レスキュー」だった。
ウィキペディアで調べると、アルバム「エモーショナル・レスキュー」の発表は、1980年6月。
1980年、自分の周りを囲んだものたちの関係性にうなずく。
毎回番組の終わりに伊武さんは「今日、スネークマンが紹介した曲は。。。」と、その日掛けた音楽のミュージシャンと曲名を告げていた。
ストーンズの新譜特集週に、伊武さんは『エモーショナル・レスキュー』を、「つまり『助けに来たぜ』より・・・」と訳していた。
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「エモーショナル・レスキュー」は、当時の雑誌・評論家だけならず、周囲の評判も芳しくなかった。
他人がそういうけれども、自分には初めてリアルタイムで出会ったローリング・ストーンズのシングル&アルバムとして、個人的に記憶に深い作品。
TBSラジオの「スネークマンショー」の頃、NHK-FMの19時20分ごろ、新譜を紹介する番組「サウンド・オブ・ポップス」で、「エモーショナル・レスキュー」全曲が掛かった。
それを90分カセットテープの片面にエアチェックした。
そのカセットテープを、大事に聴いて、ツメを折り保存した。
ローリング・ストーンズ=「ロック(ンロール)の代表格」と、当時から語られていた。
「ロック(ンロール)」がまだ身近で、うるさい自己陶酔音楽的に思っていなかった70年代終盤。
しかし、それでも「エモーショナル・レスキュー」は意外だった。
「なあんだ。少しもロック(ンロール)じゃないじゃんか。」
さまざまなスタイルの曲たち。
やけに渋く、ブルージー。
その一番は、タイトル曲である『エモーショナル・レスキュー』。
まだ酒もタバコも遠いコドモにとって、オトナの音楽に聴こえた。
■Rolling Stones 「Emotional Rescue」1980■
このブルージーさは、当時流れていた南佳孝さんや永ちゃん(矢沢永吉)とも記憶がダブるもの。
こういった気だるさあるものを、2014年今の自分が倦怠感と結び付ける傾向とは隔世の感がある。