こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年3月29日 土曜日 くらしの風景 ~迷いだらけの雑考~

2014-03-29 13:24:32 | 雑記帳

電車に乗ると、処世術本を読む人をよく見る。
それは、他人事ではない。
いまだに若いも老いたるも、その手の本を読んでしまうのは、いくつになろうが、結局はその日・その状態のありさまが揺らぐゆえ。

「三十にして立ち、四十にして惑わず」という言葉があるが、人は死ぬまで迷いながら進むものだろう、と五十に近しわたしは思う。
惑わず、どころか、毎日毎日、迷っている。
ただ、経験を踏んだ分だけは、幾多の回路が出来たけれど、だからといって、それで済んでいるわけでもない。
いくら「学んだ気になっても」、それは翌朝には崩されている。そういう具合だ。

画家・大竹伸朗さんの言葉がよぎる。
「十代でロンドンに飛び出して、そこでスクラップなるものに出会い、体内の何かが動かされて。。。そこから20数年創り続けてきたけど、何一つ進んだ気がしない。
40代なんて、しょせんガキみたいなものだ。」
別のインタビューでは「死ぬまでに、たぶん自分は思っていることの半分もカタチに出来ないで終わるだろう。」

描き散らした1990年のスケッチブックより

絵、というのを題材に挙げると、
「何か作ってやろう」という「野心」ではじめると、大抵は予定調和のつまらないものに行きつく。(これをAと置く)

わけなんかなく、イタズラ書きで始めて、いつのまにか熱中した。
という場合のほうが、断然面白い。(これをBと置く)

じゃあ、客観視する他人は、AとB、いずれに興味を抱くだろうか?
それはケース・バイ・ケース。
ただ、当人に意味があると思える時間を過ごしたのは、断然B。どんなに他人にとって、姿カタチが「愚」であろうと、当人にはBにこそ意味がある。
逆に、Aがほめられたことに、あるいは、それが「カネ」になったことで、Aの手法に専念する。

経済ばかりが優先される今の現代人は、そこでAに飛びつく人が多いだろうし、それを「ビジネス」とか「ビジネスマン」と自称してほくそえんでしまう。
絵で言えば、例えばラッセンのリトグラフだったり、要は想定内。
そこで迷いを捨てて、ビジネスのみに走った瞬間に、彼はもはや画家ではない。

***

じぶんは画家ではないが、そういった経済側からのインプットと無縁ではない。
それは、このブログに載せた文章・イタズラ書き・写真などなど、明らかにゼロではない。
その辺に居るオンナが、色気を出して、意識的犯罪的に、胸の谷間を見せたり、超ミニスカートで挑発するようにして、「わたしを見て、わたしを買って」というのと変わりない瞬間。

「だからじぶんは駄目人間なんだ」と思うとき、エセ野郎と自嘲したりもする。

ただ、他人の目線とじぶんの目線が決して一致することはない。
ゆえに、他人がいくら「Aが良い」と言っても、「いやいや、ボクの気持ちはBなのですよ」と交わりえぬ平行線が存在することがある。

***

そのへん本物のアーティストというのはさすがで、
ホルガー・シューカイ先生や埴谷雄高さんなどは、描いたものを「しばらく寝かせておくんだ」と言うし、似たようなことは多くの人が語っておられる。
写真家の森山大道さんは「写真を撮っても、すぐには見ない。1年かそこらして見たりすると良い。」とも言っていたりする。

そこにあるのは、どうやって「じぶんという当事者が関わった事象を、すこし頭を冷やして感じられるか?」といったことだろうか。。。

ブライアン・イーノ師などは、別の手法として、偶然性をそのまま音楽に持ち込むために、いろんなやり方をする。
録音したものを逆再生やテープループにしたり、切り刻んだり。
「ディスクリート・ミュージック」以降のように、装置をセットして、あとは機械まかせにして、じぶんをその中に入れないようにして、出来上がりを微調整させるだけにとどめるなど。

***

ウィリアム・バロウズの「カットアップ」なる手法などを話し出すと永遠に終わらないので、ここでいったんやめる。

本当なら、最初オリビアへの想いを再度つづるつもりだったのに、別の方向に話しが行ってしまった。
「迷いも、また愉し」。
いつもそうなら良いのだけれども。

三ノ輪のおばあちゃんが、とっくり1本、熱燗が入ると「どうやって、人生行路を渡っていくのかね」というクチぐせ・定番せりふが出たのを思い出した。



■クリスチャン・フェネス&坂本龍一 「Haru」2007■
昨夜、長年過ごしたなかまの送別会に行った。
ついつい、今だから言えた話しが面白くて、内臓不完全なじぶんを忘れて、深酒。
おぼつかない帰路の足取りの中、深い闇に桜が花を開かせていく姿を見た。

死んだように1時に寝て、12時近くに起きた。10時間も寝たなんて、いつ以来だろうか?
やけに色付き鮮やかな夢をたくさん見た。逢ったことの無い(なかまの)親父さんを招いて、島への道を3人で歩きながら、ここはこういう場所なんですよ、と案内していた。

夢か?まことか?そんな不思議だけど、安らかな時空は、まだまだこれからも出会えるし、突然舞い降りるはずだ。

食いしん坊だった、まみちゃん。忘れ得ぬ相棒との、いとおしく幸福な何気ない日常。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする