イエロー・マジック・オーケストラが「YMO」と記号化したのは、1981年3月21日発表の「BGM」以降のこと。
近時、やっと氷が溶け3人が自らの意志で集まり、ワールド・ハピネス2011にも出演したのは「イエロー・マジック・オーケストラ」という原点の名義。
***
燃える魂の中学生だった頃、松武秀樹さんは「4人目のYMO」と呼ばれていた。
富田勲さんに師事し、結成当初からYMOに関わっていた松武秀樹さん。
「YMOイヤーだった1980年」を越え、「BGM」でちゃぶ台ごとひっくり返す暴動に出たYMO。
そんな頃、松武秀樹さんが、FM東京の「セレクテッド・アーチスト(だったかなあ・・・?)」なる番組にゲスト出演した。
当時も今も、こういったFM番組にはよく男女のペアで司会を置くが、この番組ではあの(我々の時代の)ルパン3世の声の主=山田康雄さんとハーフっぽい英語ペラペラの女性のコンビだった。
当時、ラジカセで録音したアダム&ジ・アンツ、ヴィサージ、そしてこの松武秀樹さんの回のテープは最低でも家のどこかにあるはずだが、これも遭難中。
この放送の中で、1980年の歴史的第二次ワールドツアーを振り返った会話がされていた。
ボクが「東京が世界発信基地となった」ことを明らかに感じた、テレビでの衛星中継での生放送のライヴ。
このツアーの1曲目である「ライオット・イン・ラゴス」でコンピューターが完全に止まってしまった話し・・・・。
そして、松武さんが創ったユニット、ロジック・システムの1枚目LP「ロジック」からのカッチョイイ・テクノ曲がかかった。
その後、翌年の1982年には、坂本龍一のサウンドストリートで、ロジック・システムの2枚目のLP「ヴィーナス」から「I Love You」がかかった。
とてもゆるやかなテンポ、ヴォコーダーを通したI Love You・・・。
まさに自分好みの曲で、部屋を満たす日差しが丸みを帯びた空気となる日には、この大好きな曲をかけ、しばしの安息にひたった。
Logic System 「I Love You」
また、この曲は、サウンドストリートとクロスオーヴァーイレヴンの間のブリッジだった「ふたりの部屋」で、新井素子さんの『二分割幽霊奇譚』などでも使われていた曲。
***
自分が、この「I Love You」という曲が、オフコースの曲のカバーということを知ったのは、それよりも後のこと。
この頃は、YMOとオフコースというのはまさに逆の位置付けで対立する関係にあり、熱狂的女性ファンがキャーキャー言い・泣いて聴いていたオフコースを自分は「お涙頂戴軟弱者」と当時は敵視していた。
坂本龍一は、この1982年、サウンドストリートに小田氏をゲストに迎えたが、双方、元来シャイであり、重い沈黙とお互い腹に抱えた言葉がある、違和感そのものの空気の流れる40分だった。
その後、別の日の放送で坂本龍一が吐いた言葉が、オフコース・ファンの気に触れて、カミソリ入りの封書が番組宛送られてきた。
それらの手紙を整理していた当時の妻・矢野顕子が指を切る事態になる。
そして、そのことを怒りあらわに放送で話したら「わたしです」というお詫びのハガキが来て、教授がそこに綴られた「自らへの懺悔の方法」を笑いながら読んでいた。
***
とてもではないが、オフコースが売れていた頃に「オフコースは良いねえ」なんてことは、口が裂けても言えなかった。
あえて遠ざけて聴いていなかった。
自分が、やっとそこに向かうのは、ハブ噛み師匠が自分に作ってくれたカセットテープ。
大学4年生から始まり’91年以降の大阪へ定期的に送ってくれたカセットテープでのこと。
「ENDLESS NIGHT(BackstreetOfTokyo)」というシングルを梅田地下のレコードショップで発見して購入した。
梅田の夕暮れどき、自転車を転がしながら歩いていると、街に夕焼けが次第にやってくる。
異国の地大阪で遠き東京を想うそのシーンとこの曲がだぶる。
近時、やっと氷が溶け3人が自らの意志で集まり、ワールド・ハピネス2011にも出演したのは「イエロー・マジック・オーケストラ」という原点の名義。
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燃える魂の中学生だった頃、松武秀樹さんは「4人目のYMO」と呼ばれていた。
富田勲さんに師事し、結成当初からYMOに関わっていた松武秀樹さん。
「YMOイヤーだった1980年」を越え、「BGM」でちゃぶ台ごとひっくり返す暴動に出たYMO。
そんな頃、松武秀樹さんが、FM東京の「セレクテッド・アーチスト(だったかなあ・・・?)」なる番組にゲスト出演した。
当時も今も、こういったFM番組にはよく男女のペアで司会を置くが、この番組ではあの(我々の時代の)ルパン3世の声の主=山田康雄さんとハーフっぽい英語ペラペラの女性のコンビだった。
当時、ラジカセで録音したアダム&ジ・アンツ、ヴィサージ、そしてこの松武秀樹さんの回のテープは最低でも家のどこかにあるはずだが、これも遭難中。
この放送の中で、1980年の歴史的第二次ワールドツアーを振り返った会話がされていた。
ボクが「東京が世界発信基地となった」ことを明らかに感じた、テレビでの衛星中継での生放送のライヴ。
このツアーの1曲目である「ライオット・イン・ラゴス」でコンピューターが完全に止まってしまった話し・・・・。
そして、松武さんが創ったユニット、ロジック・システムの1枚目LP「ロジック」からのカッチョイイ・テクノ曲がかかった。
その後、翌年の1982年には、坂本龍一のサウンドストリートで、ロジック・システムの2枚目のLP「ヴィーナス」から「I Love You」がかかった。
とてもゆるやかなテンポ、ヴォコーダーを通したI Love You・・・。
まさに自分好みの曲で、部屋を満たす日差しが丸みを帯びた空気となる日には、この大好きな曲をかけ、しばしの安息にひたった。
Logic System 「I Love You」
また、この曲は、サウンドストリートとクロスオーヴァーイレヴンの間のブリッジだった「ふたりの部屋」で、新井素子さんの『二分割幽霊奇譚』などでも使われていた曲。
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自分が、この「I Love You」という曲が、オフコースの曲のカバーということを知ったのは、それよりも後のこと。
この頃は、YMOとオフコースというのはまさに逆の位置付けで対立する関係にあり、熱狂的女性ファンがキャーキャー言い・泣いて聴いていたオフコースを自分は「お涙頂戴軟弱者」と当時は敵視していた。
坂本龍一は、この1982年、サウンドストリートに小田氏をゲストに迎えたが、双方、元来シャイであり、重い沈黙とお互い腹に抱えた言葉がある、違和感そのものの空気の流れる40分だった。
その後、別の日の放送で坂本龍一が吐いた言葉が、オフコース・ファンの気に触れて、カミソリ入りの封書が番組宛送られてきた。
それらの手紙を整理していた当時の妻・矢野顕子が指を切る事態になる。
そして、そのことを怒りあらわに放送で話したら「わたしです」というお詫びのハガキが来て、教授がそこに綴られた「自らへの懺悔の方法」を笑いながら読んでいた。
***
とてもではないが、オフコースが売れていた頃に「オフコースは良いねえ」なんてことは、口が裂けても言えなかった。
あえて遠ざけて聴いていなかった。
自分が、やっとそこに向かうのは、ハブ噛み師匠が自分に作ってくれたカセットテープ。
大学4年生から始まり’91年以降の大阪へ定期的に送ってくれたカセットテープでのこと。
「ENDLESS NIGHT(BackstreetOfTokyo)」というシングルを梅田地下のレコードショップで発見して購入した。
梅田の夕暮れどき、自転車を転がしながら歩いていると、街に夕焼けが次第にやってくる。
異国の地大阪で遠き東京を想うそのシーンとこの曲がだぶる。
別に自分は今でもオフコースファンでも小田さんのファンでも無いです。
しかし、オフコースではなく/松武秀樹さんのこの曲は好きです。
別で語る事とするつもりでしたが、先週、一週間休みました。
気が遠くなるほど昔に取って以来の、気が遠くなるように長い休みでした。
その際に、休む事すら落ち着かない自分は、外にもロクに出ず、家に篭って、かなりいろんな事を考えました。
様々な本を引っ張り出して来て読んだり、西部邁さん・宮台真司さんらの言葉に出会う。
自分も身につまされたのが、この震災を通じた事象と、何が見えてきたのか。
日本の良し悪し両面にまたがる事ですが、感情あるいは雰囲気だけで物事が左に右に触れてしまうこと。
それ以外の側面を語ろうとすると否定されてしまう空気。
当時のオフコースというのも、そんな空気に包まれていたと思います。
だから即カミソリに至った。
その後、熱が去ったあと自分が出会った「エンドレス・ナイト」は今でも好きです。
多分、これも森下さんには否定されるでしょうが、私が出会った瞬間の断片であるから私は自分の中で否定しようも無い事実。
だからといって、教授とオフコースを並列に並べるほどの生き方をしてきたつもりは、自分には無いです。
私は、この20年、営業と市場と繋がらざるを得ない現実と対峙して生きてきた。
この中で相当悩み、戦い、打ちのめされてきた。
なんでいつも自分がヒール役になり、体制側に打ちのめされるのか?
それは、いい加減45ですからよくよく分かっています。
自分が「ノリ」とか「カラオケ文化」とか「熱意」とかいう類とは反する存在という風に「彼ら」に認識されてしまうというカルマゆえ。
だから、自分が語ったように、いつか組織からスポイルされるであろうこと。
正論や論理をそのまま通そうとすると反逆を買う。
じゃあ、どんな経路を辿って、結果、思う着地点にソフトランディングするか。
今の自分には、そのぎりぎりのラインをどう突破していくか、を極度に意識して仕事に取り組んでいます。
ある意味面白いが、ある意味リスキーなる綱渡り。
そういう局面のさなかです。
音楽と仕事は違う、と言われそうですが、同じ地平線上・地球上にあるものとして、自分は同一視しています。
渋谷さんが悩んだ「音楽が持つ音楽の論理で語ることは出来ないものか」という事はじゅうじゅう理解しているつもりです。
うまく言えませんが、今、私が言えることはこの程度のものです。
失敬。
特に自分より上の世代には、苦々しい思いをして当然だと思います。
「小田様」などと「様」付きで語る流れは、まさにカミソリものの世界。
当時、ネットなどというものが存在しませんでしたが、もし有ったら、自分は殺されているでしょうねえ。
自分は最近、仕事でも「スジ論」を意固地なまでに大事にしています。
そういう事が、ただ感情に流さがちな日本では、反感を買うのは必至でしょう。
「核」を持つ思想に至るには、容易では無い。
自分がそこに到達しえているわけでも無い。
しかし、政治も経済/仕事も、そして音楽も「核」がある。
単なる感情論の者と当然ぶつかる。
「お前の言っていることは単なる理屈だ。
もっと現実を見なきゃ。」
などと言いながら、そんなものに同意したら、超越すべき地には到達し得ない。
先日言った、みうらじゅんさんが町山さんに説教した「お前が悩んだときに、自分が好きな人の考えるであろうモノになることを諦めたら、そこでお前は死んだようなもの。」
それは「ノリ悪いじゃん、いえい〜」で済む一般大衆にまみれる中で、自分が終わるのと同一。
今、その時、一筋の信じえる核に沿って突き進むしかない。
自分はいつもそう思いながら日々仕事をしています。
戻ってオフコース&小田さんですが、山下達郎や井上陽水が「決してミドル・オブ・ザ・ロードを歩くつもりは無い」という信念の人でありながら、その偉大なる音楽が素晴らしいがゆえに、嫌なのにミドル・オブ・ザ・ロードになってしまうのと180度反対側にあるものと、今でも思っています。
とはいえ、感情を揺さぶられるときがあるのも否定しません。
ただ、そういう人間なるものの世界との格闘をしながら、音楽を生み出しているとは思えないのは事実だと思います。
例はオフコースになっていますが、それは凡庸な今も生き残る日本の売れている音楽のかなりな部分でもあります。