こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年9月3日 土曜日 『夏休み』精神錯乱キチガイ日記

2011-09-04 02:14:18 | 雑記帳


休み明けの月曜日〜土曜日の仕事は正直疲れた。
しかし、時は待ってくれない。
何が起きるか不明の「未来」に一刻一刻を刻んでいく。
回復しようの無い疲れが数十年分+1日ひたすら上乗せされていくだけ。
それでも、生きねばなるまい。

「20年間風邪を引きっぱなしだけど、ショーは明日も続くんだヨ」(ジョン・ライドン)

自分が現代社会に属する以上、坂本龍一が見事に表現した「バレエ・メカニック」にならざるを得ない。

「ボクニハ ハジメト オワリガ アルンダ
 コオシテ ナガイアイダ ソラヲ ミテル
 オンガク イツマデモ ツヅク オンガク
 オッドオッテ イル ボクヲ キミハ ミテイル」

(この矢野顕子作詞のこの曲のチューンを聴いただけでも、オフコースは別に置いて、YMOなき後の坂本龍一が、どれだけ必死に自分獲得に向けた悲惨な戦いを行なっていたか?
この想いに誰が共感・共有してくれるだろうか?)


***

先週一週間、というか、それを挟んだ両土日加えれば9連休でもたらされたものは、「私」は「その中に秩序を持っていない」ことの再確認。
40を半ばにして、今更、再度、輪廻転生そこに辿りつく。
改めて実感する感覚。

その気持ちが、実はこの社会復帰した一週間、自分の中でモヤモヤしていた。
ゆえに書く。

秩序は、外が規定する「出口無し」でしかない。

「じゃあ、これが地獄なのか?
こうだとは思わなかった。
二人ともおぼえているだろう?
硫黄の匂い、火あぶり台、焼き網なんか要るものか。
地獄とは他人のことだ。」(サルトル『出口なし』より抜粋)

「地獄とは他人」でありながら、自分で自分を見られないニンゲンは「他人という鏡」の反応に、寄る辺の一端を許さざるを得ない。
カンペキな「個」など成立しえる訳がない。

***

十代終わりからハタチへ・・と放浪の末、精神の糸が絡み合ってほどけなくなった自分。
自分の身の回りのモノを削ぎ落としていく。
すると、剥き出しの「個」が立ち現れる、そう思った。
しかし、そこに現れた感じは「私の体内には、実は何も無いんじゃないか?」。

モノを捨てていき、家族等社会的枠組み・しがらみを捨てて振り向くと、「私」「内面」なんてものは、実は何も無いのでは無いか?という感覚。

この40代半ばにして久々に取った連続の長い長い休みは、更に、外部要因が引き起こされない限り、自発的日常運営が全く運営されない、という幼少以来続く自らの欠落を再度良い歳して、自ら見た。
引きこもり、パラサイト(寄生)、人格崩壊者…すべて自分とニアイコールである。

***

■3・11、電気・・・・■

3月11日から約半年を経て、東京に集まる人たちや日常は既に何も無かったのような様相を呈している。
それは一方では正常なことだが。
しかし、あの日の麻痺と衝撃の一部を象徴するのは、電気が停止するであろうということであった。

人々がまるでご神体のように持ち歩く携帯にすがる姿。

もし、電気が消え、携帯充電が切れ、ネットが接続不可能になった時、それぞれの「私」は存在しうるのだろうか?
自分自身(かたちんば)が、削ぎ落として行った結果「私なんてありゃしない」と感じたものと似たような感覚を、この日体感した都会人は居たのではないだろうか?


藤原新也さんは、80年代中盤の狂気状態の中の東京に踊る人(『東京バレエ』By土屋昌巳)を、円環動物になぞらえて、情報の洪水を口から摂取し肛門から出す繰り返しという表現を使った。
放浪の旅のさなか、無人島に近い島に向かう船の中で、甲板で「私って、何なのでしょうか?」という女性に藤原さんは出会う。
何も無い『真空の島』で出会った女性が、まるで記憶喪失のようだった様。

3・11が都会人にもたらしたものの一部に、私はそういうものがあったと思っている。

藤原新也さんは、この回の文章で、シャブ中が更正のためシャブを断たれて、何度もキチガイになりそうな禁断症状を経て解毒に至るように…
彼女も情報遮断に伴って現れる『真空の島』に耐えることで、一握りの「私」を手に入れる必要があったのでは無いか?
インド等放浪を続けた藤原さんにしか言えない肉体を持った言葉。
私(かたちんば)も、この一週間という長い独りの休みで、藤原さんが出会った『彼女』と同じ状態=ハタチで出会った「私の無い状態」に久々になり、情報社会に毒されていることを実感した。

3・11は、宮台真司さんの言葉を借りれば、80年代後期(87ー89)以降の「終わりなき日常」との、やっとの断絶の瞬間でもあった。
しかし、過去、三島が悲しんだように、日本が一体になったかに思えたのは一瞬であり、都市は再度、普段通りの眠りに着こうとしている。

戦争時・有事に、多くの精神障害が消えてしまうということは、過去から立証されている。
要するに、戦争・有事に匹敵する位の国家のあるベクトル発生に伴う緊張状態ほど、精神障害を消す特効薬は無い。

しかし、3・11の後の状況を聞くと、それに依って抑鬱が消えてしまった人と、更に抑鬱を増してしまった人に分かれた。

ここに現れるのは、日本国家なんて概念自体が既に無かったという事実である。
政府すら無い。
もし有ったら、後者の抑鬱を増した人々をどう解釈するのだろうか?
東日本大震災という国家最大の有事に面して、各々が一体になったものは、もう既に無い。
「ある」という人は、それは本能では無くて、あくまで理念でそう思っている。

***

■三島由紀夫と日本と3・11後の日本と■

三島は、戦争への出兵から逃れた一人だった。
これは猪瀬直樹のつぶさな調査の集大成「ペルソナ」で明らかである。
但し、彼の不幸は(今回は、岸田秀が語るような生い立ちうんぬんは省く)彼の不思議な運命・カルマというか、不思議なる符号である。
彼の歳と昭和の歳は一致している。


彼は、ハタチで昭和20年8月15日終戦をむかえた。
つまり、彼の思春期は戦争時代であり、ようやく社会と面するに至って目の前にあったのは、マッカーサーであり・東京裁判であり・昭和天皇の人間宣言であり・属国としての日本であるにも関わらず「これからは平和だ」、「戦争が終わってボクらは産まれた」、高度経済成長・・・。
彼は戦後になって、自らが戦争から逃げ、今まで何があったのかを回顧しながら、魂は戦前へと回帰していく。

「人々は忙しそうに立ち働き、その多忙な様子には、見るからに新時代が躍動していた。
戦争には負けたけれども、もう爆弾の落ちる心配はなく、自由な言論と、企業的成功とが一緒に来て、社員一人一人に、もっともやり甲斐のある仕事に携わっているという気組みが見られた。
しかし、私は時々、呆然たる感想におそわれた。
これが一体現実なのだろうか?
きのうまでの自分の現実はどこに行ってしまったのか?
こんな平和なオフィスのながめは、永久に見られまいと、ついこの間まで思っていたのに、わずか半年でこうなったとは!
そんなとき、私は待合室の窓から広漠たる焼け跡をながめやって、わずかに慰めを得た。」(三島由紀夫 『私の遍歴時代』 昭和39年 より抜粋) (続く)かもしれない。

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