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1981年発表 坂本龍一「左うでの夢」
「ちょっと、ティーブレイク。」
テクノやデジタルのアタック音が強い最新の音楽ばかりが続いた後、教授がよくサウンドストリートで言っていた言葉。そうして掛ける音楽は、現代音楽でもテクノでもエレクトロニックポップでもない音楽。そうして掛かる音楽は、教授がそれまで聴いてきたものだった。最新でも最先端でもある必要がない音楽。
それらがその後「渋リク」(=渋いリクエスト)という特集回に繋がっていった。
「渋リク」は1982年以降、つまり実質YMOが終わった後であり、そんな余裕が出て始まったものという認識が自分にはある。精神を病んだ限界地点の危機感・切迫感。それに包まれた鬼気迫る1980・1981年のYMO3人は、1982年にはぞれぞれのヴァカンス/解放に向かっていく。
しかし今(言い方は微妙だが)驚くような音像より・ある範疇に置かれたフォーマットにのっとった音楽が現在進行形音楽に多いので、私が「ちょっと、ティーブレイク」と言うときがあったら、逆にディープな過去の音楽に向かう、という生理現象を起こすことが多い。
そー言いながらラジオはマッチ(近藤真彦)の「くるくるマッチ箱」が掛かっている。
80年代当時なら嫌悪していたであろうが、いまやこういった人にもシンパシーを感じて話す言葉に耳を傾けることが多い。お互い同じ時代を越え、イヤな経験も越え、いろいろあったんだから。
***
「実は。。。」と6月11日早々に仕事を退散した理由を、毎日一緒に仕事をする・ある先輩Kさんにだけ告げた。本当は、ボズ・スキャッグスのライヴに一緒に行きたかったのだが、要職を担う彼を誘うには状況的に許されなかった。
あまり音楽一筋ではないが、泊まるたびにシャーデーや最近のブラックミュージックのライヴを見せて教えてもらった・別の先輩Wさんが数年前転勤になる際、送別のプレゼントにボズ・スキャッグスの「ミドル・マン」のCDを選んだ。
それまでもKさんとは20年近い付き合いだったが、数少ない「外呑み」に誘った夜、そのCDを選んだ自分にえらい感激していたらしく、普段は寡黙であり・野蛮な自己主張しないKさんは、饒舌に如何にボズ・スキャッグスが素晴らしいかを語った。
その夜は2人で音楽だけをつまみに話が盛り上がり、深夜まで音楽談義は続いた。
Kさんとは、今・仕事上の関わり合いで一緒に居るが、そんなことを抜きにしてヒトとして好きなのである。思えば、2011年3月11日震災の夜も、家に帰れないというKさんを自分の家に泊めたのだった。
偶然なのだが、KさんもWさんも自分の兄と同い年であり、6つ上の人である。少なくともこの2人との糸は一生だと思っている。
今週、Kさんに「ボズは何も変わらず元気でしたよ」とだけ言った。
Kさん「AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)という言葉が産まれたのは、ボズが居たからだよね。あんなオシャレで都会的でかっこいい音楽はそれまで無かったよなあ。。。」しばし、仕事の合い間に話しをした。
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どうして、こんなかっこいい人に憧れながら、その後ねじれて行ったんだろうと思う。
私はボズ・スキャッグスやフュージョンやクロスオーヴァーやポップスなどが一方で好きでいながら、テクノにはじまった世界に引き込まれていった。
テクノそのものは決して「健康にも悪くない」が、テクノが発火点となり、ボズが居るポイントを離れていったのは事実である。ヨーロッパの深い森に吸い込まれていったのだった。
毒気が無いと満足し得ない、ということでは、まるでシャブに染まっていく中毒者の如く。
当時行くことはかなわなかったが、ボズ・スキャッグスはLP「ミドル・マン」を伴って1980年に来日し、武道館でライヴを行っている。下記の映像は、10月15日武道館のもの。
そこで不思議な感覚が湧く。
1980年と言えば、日本全土がYMOに呑み込まれた年である、そんな彼らは10月時点ではまだ凱旋帰国していない。彼らは疲弊しきった中、10月15日雨のロンドンに居た。もやもやした怒りと死のロードの道程。
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1980年10月15日 細野さん&幸宏
この2ヶ月後の12月には、同じ武道館で「From Tokio To Tokyo」ツアーの歴史的ライヴで締めくくりを行った。
■BOZ SCAGGS 「BREAKDOWN DEAD AHEAD」1980.10.15武道館■
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1980年10月16日 幸宏 (このときトニー・マンスフィールドとの対面が、翌年1981年作品「ロマン神経症」へ結実する)
追記:本当はボズを語るはずが、YMOに引き込まれてしまった。当時は、何の違和感も無い同志なのだが、なんだか渾然一体になった感じにも思える。
という訳で中毒重症患者は、YMOを今夜も引用する。
■YMO 「ライオット・イン・ラゴス」1980.12.27武道館(ワールドツアー凱旋公演)■