こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年6月26日 金曜日 「初夏のサウンド26 80年代の記憶の断片」

2015-06-27 00:23:21 | 音楽帳

例えば身近に置かれた本の山にある一冊「異界談義」。2002年に発売されたものだが、どこか古本屋さんで手に入れたもの。ぱらぱらとめくりながら気になった個所を読むのだけど、通してすべてを読めてはいない。こういった類の本が適当に寝床の近くにある。

ここには、水木しげるさんが描いた妖怪や、日本のみならず中国や韓国なども含め各地で育った文化を引用しながら、昔の人がどう異界を捉え伝承してきたかが語られている。

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今日、急に想い出したのが、幼少時・江戸時代を描いた「必殺仕掛人」を布団のすきまから視ていた記憶。狭い三ノ輪の居間兼寝床で、となりには親父が電気を消した中、この番組を安いウイスキー水割りを飲みつつゴロ寝で見ている。

幼い頃から不思議なものに惹かれる少年だった。「あんたは、どうしてこういうもんが好きなんだろうねぇ」と言われながら、無理矢理許可を取り付けたUFO・幽霊・不思議な現象や事件を追った番組を好んで見ていた。文学少年だった兄からのおさがりとあてがわれた小説類は、鮮やかな挿絵以外には興味を抱かず、もっぱら本嫌いが読めた本の接点は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズだった。

「異界談義」には、こっくりさんや口裂け女に関するお話しも含まれるが、多くは民俗学の話しである。

糸井重里先生が「不思議、大好き。」というコピーを持って現れたのは80年代初頭で、彼を中心に広告業界が活性化を経て、濡れ手に粟となり、暗躍するに至る訳だが、此の世すべてが広告(うそだかホントだか分からないが、とりあえず表面的に宣言したものにすべては煽動される)化していく。
学生運動でふるっていたゲバ棒をペンに換えて、ということを糸井氏はよく言われていたが、おだやかな語り口の糸井さんの背後にあったのは価値の逆転であり、その後花開いた80年代の文化は結果的に資本主義文化と密接な関係がある。

個人的想いとすれば、当時本当にさまざまクレヴァーな新しい何かを産み出した人々の爆発は確かなる功績はあったが、紆余曲折の上、今あるこの国の悪しきフォーマットに繋がってしまった。
そういう居心地の悪さがある。

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人が不思議なものに抱く魅力や「なぜか知りたい」という気持ちは、きわめて当たり前の感情。しかし、そこに漬け込んだ宗教が様々な手法を用い・信者集めを加速させ、結果オウム事件(あくまで”事件”)に辿り付いたのも80年代が描き出した光跡である。

極度のノイローゼだった80年代中盤、御茶ノ水聖橋口で女性の手相見が立ち、さかんに勧誘を行っていた85・86年あたり、豊田商事事件前後のシーン。この苦しい時代には岡田由希子ちゃんの死や日航機墜落という傷ましい事件の記憶が肉に食い込んでいる。
(90年代に向かう昭和と平成の境目ごろ新宿に行った際、駅前で象のかぶりものをした女性が選挙カーで踊る姿を眺めていて、気が付くと周囲を笑顔の白装束に囲まれて走って逃げたことなども浮かぶ。)

その1986年・ハタチで死にそこなう馬鹿を通過した後、リハビリテーションの最中、実家にあった朝日新聞に連載された藤原新也さんの「丸亀日記」を毎週ハサミで切り抜いて読んでいた。今でも覚えている文章の中に、24時間営業の「コンビニ」が乱立し始めた頃のくだり(今、手元には無い)。
ふらふらと深夜さまよう蛾が、店の外に設置された街灯に当たりバチバチと電気を放ち、蛾が落ちていくシーン。夜を覆っていた闇の濃さが消えていく、室内には永遠に絶やさず点いた白熱灯。闇世界の死滅。

このくだり的な記載は「異界談義」にも収められおり、まさにそうだと思う。
しかし、「丸亀日記」を読んでいた時から後、当時想像もしない関西で阪神・淡路大震災に遭い灯りの消えた神戸を見、そこから16年後に311が起きる。

歴史を学校で学び始めるのは小学校だが、縄文弥生に始まり聖徳太子に至るまで興味津々で、本嫌いなのに強制も無く歴史に興味を持つが、平安を過ぎるあたりから訳が分からなくなり「勉強」をサボるようになった。そこから後、そういった類に興味を抱いていくのはハタチ後にワープする。

『陰謀論』なるものの存在に自分の目が留まったのは311後であるが、興味深いこともあるものの、どこまで何がどうなのかは一介の私には判りかねる。ただ、元々「世」で語られていることの外側に何かがあるはずという空白が消えてしまい、若年層までもが社会経済・国家・歴史といったものの動向に対して血眼な時代が来るなどとは思ってもみなかった。
そんな流れを感じる。

そんな折「異界談義」をぱらぱらめくると、京極夏彦さんが小松和彦さんとの対談で幼少の頃から「日本的なもの」が好きだが、そこには右という意識もなく・・・という語りがあって、妙に安堵した。

■Japan 「Sons Of Pioneers」1981■
この曲を収めたLP『錻力の太鼓』のジャケットに霊が写っていると言われたが、私には見えなかった。
そうは思わなかったものの、器に盛られたご飯がまずそうであることとデヴィッド・シルヴィアンが持つお箸とお椀の指使いがやけに不器用なさまが未だに記憶に焼き付いている。


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