三 搾取の構造(5)
マルクスは剰余労働による資本の価値増殖という「貨殖の秘密」を解明しようとしたが、それをより抽象度の高い法則として定式化していく前提として、ある仮定をする。
・・・どの価値形成過程でも、より高度な労働はつねに社会的平均労働に還元されなければならない。たとえば、一日の高度な労働はx日の単純な労働に。つまり、資本の使用する労働者は単純な社会的平均労働を行なうという仮定によって、よけいな操作が省かれ、分析が簡単にされるのである。
この仮定において、マルクスは複雑な高度労働を単純労働の倍数的集積として単純化していることがわかる。しかし、複雑労働ほどまさに複雑な内容を持ち、単純労働の倍数では表せないものである。晩期資本主義ではそのウェートが高まっている知識労働では特にそうである。また、多種類の労働について社会的平均労働なるものを平均値として正確に算出することは労働という営為の性質上困難であり、まさに仮定とならざるを得ない。このように分析を簡単にするために、二重の仮定操作が行なわれることで、マルクスの定式はいささか現実の資本主義労働の実態とずれた観念論に踏み込んでいくことにもなる。
労働者は、彼の労働の特定の内容や目的、技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値を諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、みいだす。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。
先の仮定どおり、労働の内容等を捨象した「単純化」により、価値増殖過程についてより抽象度の高い定式化へ進もうとしている。ここで言われる生産手段の価値移転は、労働過程の中で行なわれることを指摘しつつ、マルクスはその仕組みを縷々検討し、次の定式を抽出する。
・・・生産手段すなわち原料や補助材料、労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。
例えば、マルクスが例に取る紡績でいうと、綿花や紡錘などの生産手段が含有する価値量は、綿糸という生産物にそのまま移転される。ただし、「不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない」。例えば、1ポンドの綿花が今日は6ペンスであるが、明日は1シリングに値上がりすることは当然あり得るが、「この価値変動は、紡績過程そのものでの綿花の価値増殖にはかかわりがない」。つまり、不変資本であることに変わりない。
これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。
剰余価値論を踏まえた定式化である。つまり、「労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行される。この点までは六時間で十分でも、それではすまないで、過程はたとえば一二時間続く。だから、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される」。すなわち剰余価値であり、このような価値増殖をもたらす資本部分が可変資本と抽象化されたことになる。
以上の不変/可変資本の関係を記号的に表すと、不変資本c、可変資本v、剰余価値mとして、生産物の価値a=c+v+mなる基本定式が得られる。
ちなみに、この不変資本と可変資本の割合は、技術革新によって大きく変動することがある。マルクスが挙げている例でいえば、従来は10人の労働者がわずかな価値の10個の道具で比較的少量の原料を加工していた町工場的な経営から、1人の労働者が1台の高価な機械で100倍の原料を加工する最新工場に転換された場合、不変資本の価値量は飛躍的に増大するが、可変資本は逆に大幅に減少する。
この資本構成の割合の変化は、不変/可変資本の相違自体には影響しないが、しかし、搾取の割合には影響してくる。この問題が次の課題となる。