ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第206回)

2021-03-03 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(5)共産党の勝利と人民共和国の樹立
 戦後の1946年に再燃した国共内戦は、国民党軍・共産党軍ともに、抗日レジスタンス期を通じて膨張した兵力でぶつかり合う総力戦であり、同時期に欧州で並行したギリシャ内戦とともに、戦後冷戦の初期を画する重要な決戦となった。
 緒戦においては、中共の勝利を阻止したいアメリカが国民党軍を軍事援助したほか、イデオロギー面からは中共側を支援するはずのソ連が蒋介石から提示された満洲権益獲得の密約によって中共援助を控えたことで、国民党に有利な展開となった。
 ところが、経済的な土台の揺らぎが、戦況を変える要因となった。その最大のものは、国土の相当部分を占めていた国民党支配地域におけるインフレーションの亢進である。原因は、国民党が戦費調達のために不換紙幣の法幣を大量発行したことにあった。これにより、戦禍の癒えない都市部細民の暮らしが追い打ち的な打撃を受けた。
 加えて、アメリカからの援助と引き換えに、いまだ未熟な中国市場をアメリカ資本に開放したことで、地場の民族資本が圧迫され、国民党の長年にわたる有力支持層である民族資本家層の不満も高まっていた。
 これに対して、10年近く農村部に土台を置いてきた中共は、農村部において1930年代から試みてきた土地革命、すなわち地主の土地を接収して農民に再配分する均分化施策を本格的に実施した。これによって、多くの農民が土地を取得するとともに、中共に入党し、兵士としても従軍することになった。
 戦況の大きな転換点は、1947年に現れた。この年、国民党は従前の全面侵攻作戦を重点攻撃作戦に変更したが、これが裏目となる。重点攻撃の最重点地域は当然にも中共根拠地の延安であったが、中共はあえて延安から移動して、より奥地の山地に国民党軍を誘い込む戦術で、得意のゲリラ戦により国民党軍を打ち破った。
 翌年1948年秋から49年1月にかけて、いわゆる三大戦役、すなわち遼瀋、淮海、平津の三つの戦いで国民党軍はいずれも大敗を喫し、致命的な戦力の喪失を招いた。一方、勢いづいた共産党軍は北京を含む主要都市を次々と制圧していき、国民党政府首都の南京や上海も落とし、ほぼ勝利を確実とした。
 この間、国共両党は1949年4月から和平協議を開始していたが、まとまらず、同年9月には、中共が主導して諸派を結集した政治協商会議が北京にて開催され、10月1日に毛沢東を主席とする中華人民共和国の樹立が正式に宣言された。
 この時点で、国民党はなお大陸内及び海南島に拠点を残して反攻の機をうかがっている状況にあったが、1950年に共産党軍(人民解放軍)による大規模な国民党掃討作戦が展開された結果、同年8月には海南島も陥落し、事実上内戦は終結した。
 蒋介石はすでに1949年12月に台湾に移り、台湾を事実上の拠点化した一方、中共側にも直ちに台湾へ追撃する余力は残されていなかっため、以後、中国は中共支配の大陸と国民党支配の台湾とに分裂していくことになる。もっとも、蒋はなおも反攻の意志を捨てていなかったが、やがては台湾での独裁支配の確立に傾斜していく。
 こうして、国共内戦は、ギリシャ内戦とは真逆に、共産勢力の勝利、政権樹立という結果に終わった。こうした結果を招いた外的要因として、アメリカが内戦不介入方針を示し、静観したこと、ギリシャ内戦では反共側を支援したイギリスも人民共和国承認に動くなど、米英の消極姿勢も大きかった。
 もっとも、アメリカでは国内の反共保守派からの圧力を受けて、当時のトルーマン政権が不介入の立場を変え、国民党の大陸反攻を支援する姿勢を示すも、折から勃発した朝鮮戦争への危機対応にかき消される形となったのである。

コメント

近代革命の社会力学(連載第205回)

2021-03-01 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(4)解放から内戦へ
 日中戦争は当初、物量で優位な日本側が圧倒するかに見えたが、中国側が同時期の他国のレジスタンスでは例を見ない共産勢力と反共勢力による統一戦線を組んで臨んだ結果、長期の膠着状態に陥り、決着が見通せない状況にあった。
 しかし、日本が太平洋戦争に敗れ、ついに無条件降伏したことで、日中戦争も終焉する。ここでも、共産党主体のレジスタンス勢力がほぼ独力で枢軸軍を撃退したユーゴスラヴィアやアルバニアとは異なり、解放後、共産党がそのまま革命政権の主体として平行移動する経過は辿らなかった。
 国共合作はあくまでも抗日レジスタンスを目的とする暫定的・戦略的な統一戦線であって、国共間のイデオロギー的な相違を埋めるものではなかったから、抗日の目的が消失すれば、直ちに内戦が再開する危険を内包していた。
 ことに1937年以来、延安に根拠地を置いてきた中共は、一時、党内で失権していた毛沢東が復権し、レジスタンスを通じて多くの農民党員・兵士を獲得し、農村を基盤とする実質的な農民階級政党として成長しており、反共ブルジョワ階級政党の国民党との相違は、逆説的なことに、国共合作の中で顕著になっていた。
 とはいえ、多大の犠牲を払ったレジスタンスがようやく終結した直後の段階では、民衆の厭戦気分も強かった。そうした気分を反映して、国共両党は1945年10月10日、内戦を終結させ、孫文の三民主義に立ち返った新たな民主的統一政権を樹立することを約した協定(双十協定)を締結した。
 中国(中華民国)は戦後の新秩序の中で英米仏ソに続く五大国の一角を占めるに至っていたため、戦後秩序の主導者となったアメリカも中国の安定化に関心を寄せ、1946年1月にはアメリカの仲介で停戦協定が成立した。ソ連も異議を唱えなかったため、この和平プロセスは順調に進むかに思われた。
 同時に、国共両党はその他諸派も加えた新政権準備会議に相当する政治協商会議を重慶にて開催し、憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などの重要決議を採択した。この時点で主導権は国民党にあったが、同党は臨時政府に相当する国民政府委員会の構成上、過半数を握らず、中共も参加する挙国一致政権を発足させた。
 しかし、こうした表の政治力学の背後では、国共両党の主導権争いがすでに水面下で始まっており、中共側が提案する民主連合政府構想を中共の主導権獲得戦略と見抜いた国民党側はこれを拒否、かえって党大会で国民党の主導権を強化する決議を採択するなどし、双十協定をなし崩しに破棄していった。
 1946年6月には、国民党の蒋介石が国民党軍に対し、中共根拠地・支配地域に対する全面侵攻の指令を下し、ついに国共内戦が再開された。これに対し、中共の毛沢東は人民戦争の理論で迎え撃ち、内戦は両党の総力戦へと進展していく。

コメント