国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

南部信昭氏の「ひねくれモンテ」

2018-07-28 15:02:01 | マジック
南部信昭の「ひねくれモンテ」


●南部氏を語るときにキーワードとなるのが「珍作」である。

 その面が昨日記事ではわかりにくいので、実際に売られている「ひねくれモンテ」から気配を知って欲しいのである。

●むろん、これは商品化されているので純粋な珍作とは言えないかもしれないが、その気配を持った作品なのである。

●まず、動画を見ていただけただろうか。

 以下の引用はmML(マンスリーマジックレッスン)の紹介文からである。

「仲間はずれ」のカードを当ててもらうモンテ形式をとりながら、話は二転三転…なかなか一筋縄ではいきません。
どこか人を食った展開の面白さを持つ、ユニークな演出のトリックです。


 この「二転三転」「人を食った」が珍作には多い。

 動画にも「これが5枚目で」という台詞があるが、「人を食った」とはそういう姿勢である。

 ただ、ここでユニークなのが論理的な面である。珍作は「論理的」に考えると面白い作品が多いのだ。

「確かに、表と裏で『仲間はずれ』のカードが違うことが話をややこしくしているので…」と、
まず、表が異なるカードを他の4枚に同化するように変化させて、いったんすべての表を同じにします!
さらに、裏の色の異なるカードの表を変化させて、最終的に裏から見ても表から見ても「仲間はずれ」のカードを作ります。


動画でもわかることだが「認識的」にこだわっている作品も多い。

●珍作は「論理的」「認識的」であることが多いのだ。

●今日配信された
週刊マジオンの「コンバージョン」は名作であるが、残りの作品は珍作のはずだ。

 期待大だ。

 今、申し込めば間に合うはずだと思うよ。


●追記

「コンバージョン」の原型の「ペアペア大作戦」の載っている マジックカードA.M.A は南部氏の作品集という面もあり、再販をどこかしないかしらん。


●追記2

 せっかく入手可能な南部氏の作品なので「ひねくれモンテ」を買いましょう。

 いや、面白いよ、これ。

●追記3

 珍作はマジックマニアほど面白いと感じる面が多いということを念のため。




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南部信昭氏との思ひ出など

2018-07-27 15:11:37 | マジック
●今回の週刊マジオンのゲストととして南部信昭氏が登場している。

●私のマジックの歴史を振り返ると、初期はスベンガリデック→スコッチ&ソーダ→池袋東武だったのだが、中期は南部信昭氏一色だったのである。

 いまだに彼の影響下に心地よくいる私にとって今回のマジオンゲストは最高なのだ。

 見ていない人はぜひ見た方がいいよ、マジックの概念が変わるやもよ。いいほうにとは言わないけど。

●今回の記事はマジックを知らない人にはまったくわからないよ。いつもそうだろと言われたら身も蓋もないけど。




●南部氏を初めて意識したのは(初対面はトリックスの単なるディーラーさんだったはず)、野島剛司氏(Not野島伸幸)の最後のレクチャーに参加した時である。

 売り物のスポンジボールをいじっていたのである。何をしているかを見たところ、手に握ったスポンジボールを伸ばしたのである。

 ここまでは分かる人にはわかるな。しかし、彼の天才なところはその状態から中指を伸ばして「インビジブルゾーン(テンヨーの傑作な)」と呟いたのである。

 意外すぎて声を出して笑ったものである。

 珍作との初めての遭遇を言えようか。




●マジックを趣味として、通常のマニアと違う道に行けたのは、トリックスのディーラーさんとしての彼から商品を買った時だ。

 お前なんか通常のマニアだと思う人は通常のマニアを見てみるといい。ストイックで上手だから。

●中川修氏の怪著「JAPOMAGICA(RRMC)」を勧められたのだ。

 「国稼さんならこの本は必携ですよ」

●依井貴裕氏のお節介説によると「この本は読み物である。奇術の解説書などでは断じてない。」と書かれた本を勧めてきたのだ。

 もちろん、楽しめた。

●問題は別の日だ。

 ある青年がJAPOMAGICAを手にして「いい本ですか」と南部氏に訊いてきたのである。

 「あ、いえ、それはマジックの本じゃないですよ」

 と語ったのである。

●ディーラーさんは売ってなんぼである。だのに売らないところにも驚いたし、私には勧めたのも驚いた。

 大げさに言うと、ある意味、彼に選ばれたのだ、私は。




●そのような(でまとめていいかな?疲れてきたんだね)彼の世界観はすべてのマジシャンが知っておくべきことだと思ふ。

 不幸なことに彼が映像に出ている作品は珍作であるがゆえに、また本人が奥ゆかしいせいか少ない。ひ7ねくれモンテくらいであろうか。

 商品や作品はいくつもあるんですけどね。珍作の香りのする傑作たちが。念のため。

 その彼の映像、作品に触れる機会が今月の週刊マジオンのゲスト回なのである。

 ぜひぜひ見ていただきたいものだ。



 
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誕生日を

2018-07-25 19:40:53 | 日記
●誕生日をむかえてしまったが、知人から人生100年なら半分ってところかというメールをいただき、意外な視点に驚く。

●「血界戦線」のアニメを観る。

 二回見たが、内容がだいたいわかり、面白かった。マンガも買おうかしら。

●マジック道具を引っ越しのために整理しているが、比較的順調か。mMLの引っ越しは終わったし。

 あ。まだマジック道具を入れるラックを引っ越してないや。

 エニエニケースとかペアペアケースなどを作っている。

 レインボウデックはケース(A4)レベルじゃ入りきらないから箱に入っている。

 他に箱に入っているのは、ゆうき(様)箱、新沼箱、パケット箱、吉田箱、野島箱などなど。

●血中のマジック球とヲタク球を維持したり、増やしたりしていこうと思う。

●そんな最近。




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日本文化系の小論文

2018-07-22 13:27:53 | 国語
日本文化というと、ともすれば古典文学や伝統芸能といったものを思い浮かべがちですが、現在の文化研究は、映画・コミック・ポップスといった大衆文化をも含み込む方向に向かっています。こういった大衆文化について具体例を取り上げ、その持つ意味について自由に論じてください。(日本文化系90分1200字程度)








【解答例】 
 現代の大衆文化で世界的に影響を与えている日本文化はアニメであろう。多くの作品に影響を与え、子どもから大人まで幅広い層に受け入れられている。ここでは宮崎駿の代表作である「千と千尋の神隠し」について論じていきたいと思う。なぜなら、外国や日本で幅広い層に受け入れられた作品であるうえに、日本的な世界観や価値観が反映された作品だと考えるからである。
 「千と千尋の神隠し」という題名は内容をストレートに表現している。登場人物は「千尋」であるが、父と母が禁忌を犯してしまったために豚に変化してしまい、それを助けるために名前を「千」にされ、異世界と言える空間で多くの神々や妖怪らと暮らす。つまり神隠しである。そして最終的に自我を取り戻すまでを描いた作品である。
 この作品には、多くの日本の思想や世界観が表れている。まず、言霊思想である。日本人は自らの国を言霊の国と認識していたが、ここでは名前と自我を関連させている。つまり、「千」と「千尋」は名が違うがゆえに同じ人間ではないのである。むろん、聖書に「最初に言葉ありき」とあるように言語に聖なる要素はあると世界中で認識しているのはわかるが、ここでは日本独自の意味もあるように思う。日本では、一人称が相手や場によって決められることが多い。「わたし」「ぼく」「お兄さん」「先生」など、一人称を使う人は相手にあわせて用いるのだ。ここから日本人は相手によって自我をつくるということがわかる。この作品では相手に「千」と呼ばれることで「千」という人間になってしまうわけであり、自我を他者が決めるということが表れていると言えよう。
 次に「カオナシ」の存在からわかる倫理観である。「カオナシ」は時に金、つまり、ゴールドで人の欲望を出させ、相手を食べてしまうことがあった。これは悪と善を明確にわける文化ではあきらかに悪に分類されるものである。しかし、この作品ではカオナシを悪であると単純にはみなさない。確かに日本でも桃太郎のように善悪を単純に描いた作品もあるが、日本神話のスサノオや判官ひいきのように善を絶対視していないことの方が多いと言えよう。むしろ、アメリカの大統領のように善と悪を明確にされるととまどうことが多いのではなかろうか。カオナシは悪と言うよりも千と同じく自我なき、悲しいものとして描かれていると思われる。多神教的なものとして描いていると言ってもよいであろう。
 では、外国や現代の日本にとって、「千と千尋と神隠し」のような伝統的な日本の考え方を含んだ作品はどのような意味があるのだろうか。この作品を見た人は、多様な価値観や世界観があるということを認識できるであろう。例えば、アメリカのように絶対的な善を前に出す国には、制御する方向に持っていく考え方になるだろう。また、名前の重要性に気がついた日本人は日本の過去の植民地政策における改名の罪深さを知るだろう。グローバル化という流れの中で、日本文化を利用した「千と千尋の神隠し」は、世界と現代の日本に多様な価値を教える作品となったのである。
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マジックのリハビリと日記8

2018-07-17 18:51:33 | マジックのリハビリと日記
●某日~某日。突然、マジックができなくなる、というか、する気力がなくなったというべきか。

 mMLなど全部、箱につめちゃったし。

●某日。DSソフト「マジック大全」を発見。それ以来、2DSで寝る前などにいじり、楽しむ。「ファニーフェイス」は傑作。

 これってテンヨーでしたっけ?

 2DSにカメラがついているんで演じ方に気を付けないといけない作品がありそうだけど、昔のDSにはカメラなかったよね。

●某日。レインボーデックの入った箱がみつかる。

 ウィニング・ザ・レインボーもみつかったんだが、入れるスペースがない。

 ゆうきとも氏箱にいれようかしら。
 
●某日。チャイニーズコイン箱(中貨箱)を引っ越す。重いよ、重い。箱は小さいのにね。

●某日。何をどこにいれたかわからなくなってきた。本棚やラックを引っ越したら、整理され、発見されるだろう、きっと。

●某日。高い買い物をしようとしたら、引っ越し先の条件のせいで工事費が余分につきそうだわ、家主さんの許可を確認しなくてはいけなくなるわでてんやわんや。

●某日。野島伸幸氏のFISMの結果を残念に思う。しかし世界を相手にしている氏を尊敬する。

●全体的にちょっと、マジック離れの傾向があるが、引っ越しのためやむなし。




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嬉しい

2018-07-13 13:28:57 | 日記
要約問題の解説を尊敬する先輩に褒めていただいた。

公開してよかったぁ。





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頑張ってとつくづく思ふ

2018-07-11 21:29:28 | 日記
野島伸幸氏のFISMでの活躍を祈る日々
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要約問題 夏目漱石「現代日本の開化」(一橋大学過去問)より問題

2018-07-03 17:56:23 | 国語
次の文章は「現代日本の開化」と題する講演の一節である。これを読んで後の問いに答えよ。


①私は昨晩和歌の浦へ泊まりましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレベーターが宿の裏から小高い石山の頂へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子の檻(おり)の中に入って山の上へ上げられた一人であります。があれは生活上別段必要のある場所にあるわけでもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物好きである。ただ上がったり下がったりするだけである。疑いもなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計(くらし)向きとは関係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれてこういう贅沢(ぜいたく)なものの数が殖えてくるのは誰でも認識しないわけに行かないでしょう。しかのみならずこの贅沢が日に増し細かくなる。大きなものの中に輪が幾つも出来て漏斗(じょうご)みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気の付かなかった方面へだんだん発展して範囲が年々広くなる。
②要するに唯今(ただいま)申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわち出来るだけ労力を節約したいという願望から出てくる種々の発明とか器械力とかいう方面と、できるだけ気儘(きまま)に勢力を費やしたいという娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜(さくそう)して現今のように混乱した開化という不可思議な現象が出来るのであります。
③そこでそういうものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックスとでもいいましょうか、ちょっと聞くと可笑(おか)しいが、実は誰しも認めなければならない現象が起こります。元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだとかいえば生まれながらそういう傾向をもっていると答えるより外に仕方がない。これを逆に申せば吾人(ごじん)の今日あるは全くこの本来の傾向あるがために外ならんのであります。なお進んでいうと元の儘(まま)で懐手(ふところで)をしていては生存上どうしても遣(や)り切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んできたのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。
④けれども実際はどうか。打ち明けて申せばお互いの生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚がお互いにある。否(いな)開化が進めば進むほど競争がますます劇(はげ)しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化はかち得たに相違ない。しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔らげられたというわけではありません。ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至って同じことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかといえば――あるいは不幸の程度において違っているかといえば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかもしれない。
⑤昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力を敢(あ)えてしなければ死んでしまう。已(や)むを得ないからやる。しかのみならず道楽の念はとにかく道楽の途(みち)はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいという方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸ばしたり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。生きるか生きるかというのは可笑(おか)しゅうございますが、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。
⑥活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽(ひ)いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮らすかの競争になったのであります。どっちを家業にしたって命に別条はないにきまっているが、どっちへ行っても労力は同じだとはいわれません。人力車を挽くほうが汗がよほど多分に出るでしょう。自動車の御者になってお客を乗せれば――もっとも自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが――短い時間で長い所が走れる。糞力(くそぢから)はちっとも出さないで済む。活力節約の結果楽に仕事が出来る。されば自動車のない昔はいざ知らず、いやしくも発明される以上人力車は自動車に負けなければならない。負ければ追い付かなければならない。というわけで、少しでも労力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現われてここに一つの波瀾(はらん)を誘うと、ちょうど一種の低気圧と同じ現象が開化の中に起こって、各部の比例がとれ平均が回復されるまでは動揺して已められないのが人間の本来であります。 
                       ――夏目漱石「現代日本の開化」 

問 上記の文章の要旨をまとめよ(二〇〇字以内)。 (一橋大 2000)





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