ジャンピングワーム(マジックファンタジア)
Jumping Worm | ジャンピング・ワーム)フレンチドロップ)
●上のファンタジアさんの動画が未改造、オリジナル。
●下の動画はフレンチドロップの改造したパドルでのマジック。
●下の方が改造しているだけあって楽しいよね。
●え? 私?
●もちろん、両方持っていますとも。
●え? 「もちろん」?
ジャンピングワーム(マジックファンタジア)
Jumping Worm | ジャンピング・ワーム)フレンチドロップ)
●上のファンタジアさんの動画が未改造、オリジナル。
●下の動画はフレンチドロップの改造したパドルでのマジック。
●下の方が改造しているだけあって楽しいよね。
●え? 私?
●もちろん、両方持っていますとも。
●え? 「もちろん」?
●基礎疾患の束なのでワクチン接種4回目を明日にひかえ、嫌だなあという気分。
●以下、記述が暗くなったから、削除。基本、時間つぶしが嫌だという内容でした。
●9月後半までに読みたい本があるんだけど、体力と読解力がね、つい、ちょっと。
●やはり、暗くなったな。
●パドルマジックを購入。絶版品。解説のDVDに価値のあるタイプ。
●明日、到着予定。
●パドル自体は持っているんで、誰かに譲渡ないし、共有しようかと。
寄付するには下品なものだしなあ。
●パドルマジック+下品でわかった人はマニアないし、僕の仲間。
● 融合文・・・文章の中に他の文章が引用されているタイプの文章のこと。
● Aという文章の全体の中にBという文章が引用されている文章があるとした場合、次の3パターンの問題が作れる。
①Aについての出題 ②Bという文章の出題 ③AとBの関連をついた出題
※ ③が特に融合問題独特の問題といえる。
● 以上のように3種類の読解力を試すことができる。大学だけではなく、最近では中学入試、高校入試でも問われる傾向にあるが、センター試験でも現漢融合文のようなものが出たので、注目される。
● 特に引用文Bの種類が重要になる。Bには、韻文・古文・漢文などがくる。そのため、それらが苦手な受験生は全体的に点数が取れない傾向にある。分野としては、文芸論など人文系が多い。
● 基本的な構成は以下のようになる。
(A → )B → A → B → A (なおも続くこともあるし、A → Bの一回きりのこともある)
● 上のような構成なので、注意すべきはAである。これが筆者の文章であり、筆者の主張に沿って、Bを解釈していけばいいのだ。つまり、対応関係を見抜くことが重要になる。
● なお、Aが筆者の主張であり、Bはそれをサポートするか、Bの解釈・解説の対象となるのである。
● さて、以下に典型的な融合文を掲げる。これはBの部分に紫式部、与謝野晶子という二人の文章が入るタイプの文章である。先の設問タイプ①Aについての出題②Bという文章の出題 ③AとBの関連をついた出題がそれぞれ作成できることを実感してほしい。
「与謝野晶子から学ぶ」
翻訳をするというのは、どういうことでしょうか。
ここで与謝野晶子の翻訳した源氏物語を利用して、翻訳について考えてみたいと思います。
源氏物語の若紫にヒロインである紫の上が初登場する場面があります。主人公である光源氏が垣間見(物の透き間からこっそり見ること。のぞき見。)をし、彼女を発見するのです。ここで紫式部の描写を原文で読んでみましょう。
髪ゆるるかにいと長く、目やすき人なめり。
これを与謝野晶子はこう訳しています。
髪のゆらゆらと動くうしろ姿も感じのよい女である。
さて、本文にはないことばに注目しましょう。「動く」と「うしろ姿」ですね。逆に言うなら「人なめり」の部分の訳は正確とは言えませんね。
「人なめり」は「人」「なる(なん)」「めり」の三つの単語でできています。人は名詞ですね。「な」は「なん」と読み、断定の助動詞「なる」の撥音便です。「めり」は視覚推量の助動詞なのです。通常ならば「人なめり」は「人であるようだ」になります。視覚推量の助動詞を紫式部が用いているのは、「垣間見」の場面だからです。
では、与謝野晶子は「垣間見」であるのに、「女である」と断定で訳しているのは、正しいのでしょうか。
よく読むと、与謝野晶子はきちんと、垣間見にふさわしい訳をしています。それは「ゆらゆらと動く」「うしろ姿」などの表現です。髪が長いという説明はせずに、ゆらゆらと動くくらいの髪の長さであると読者に理解させつつ、動きのあるうしろ姿を描写することで、視覚中心の情報を読者に提供しているのです。より光源氏が見た風景に近く訳しているということになります。
翻訳とは、読者により正確な世界を提供することであり、文法的に正確な訳をすればいいわけではないのです。
他にも与謝野晶子は文法を無視して、訳すときがあります。
同じく、若紫の場面から次の文章を読んで見ましょう。幼い紫の上に尼君が注意するところです。
「いで、あな幼や。言ふ効なうものし給ふかな。おのが、かく、今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。『罪得ることぞ。』と、常に聞こゆるを、心憂く。」とて、「こちや。」と言へば、つい居たり。
「あなたはまあいつまでも子どもらしくて困った方ね。私の命がもう今日明日かと思われるのに、それはなんとも思わないで、雀の方が惜しいのだね。雀を籠(かご)に入れておいたりすることは、仏様のお喜びにならないことだ、と私はいつもいっているのに」
「思したらで」を「思わないで」、「雀慕ひ給ふほどよ」を「雀の方が惜しいのだね」と訳しています。どちらも尊敬語を用いていないのです。しかし、近代以降の私たちは幼い子どもに対してはそのような言葉遣いをしないので、与謝野晶子はこのように訳したのでしょう。源氏物語を翻訳するというのは、平安時代と現代をつなぐ作業です。そこには文化を理解することと読者を想定することが重要になるでしょう。与謝野晶子は源氏物語を現代につなぐことに成功したのです。
●付録
私が作ったことがある問題の一部からちょっと設問のイメージを持ってもらおうか。元ネタは野口武彦の一節だと思ふ。野口武彦の本はすべて廃棄したので、本文は書けない。なのにこの設問を覚えているのは私には「融合文」らしい設問だからである。
「師の説なりとて、必ずなづみ守るべきにもあらず」と同じ内容を述べている部分を五文字以内で抜き出しなさい。
解答 異論OK
●五文字以内でというのがポイント。出だしの五文字と解釈した誤答が多かった。設問には忠実にね。
※2018-04-14の記事に加筆。及び訂正。
次の短歌とその鑑賞文を読んで、あとの問いに答えなさい。
題知らず 紀 貫之
A 初雁のなきこそ渡れ世の中の人の心の秋し憂ければ
(初雁が【 甲 】ながら秋の空を渡っていくように、私も泣き暮らしている。あの人の心飽きを知らされたのがつらくて)
題知らず 詠み人知らず
B 時雨つつみづるよりも言の葉の心の秋にあふぞわびしき
(時雨がきて木々の紅葉する秋もわびしいが、人の心に飽きがきて、あれほどに頼みにさせた言葉が褪(あ)せてゆくのを知るのは【 乙 】わびしい)
同じ「心の秋」を詠み込んでいても、AとBの間には、歌の時空を重層という点での開きがあり、「心の秋」に「言葉の秋」をつないだ工夫は、単なる修辞の例としてではなく、①古今集の歌人が、人の心と言葉との関係にどこまで踏み込んでいたか、その認識のあらわれとして私にはうつる。
「言葉の心の秋にあふ」という言い方を支えているのは、「言葉の秋」はすなわち「心の秋」のあらわれだというのだという見方、ここで「言葉」と「心」は、前後上下の関係ではなく、対等の関係で見られている。それもきわめて自然に。古今集の【 丙 】に。紀貫之が、「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と記してこのかた、心と言葉の関係についての問いは、やまと歌の理論的研究の題目の一つであり続けた。
歌を、ただのどかに詠み出していればよい時代が過ぎて、歌の歴史や表現の方法、効果などについて考え論じることが、詠むのと同じくらい重要になってきた中世歌壇での「心と詞」についての考究は、藤原俊成、定家、順徳院の歌論の大切な部分を占めている。その上、中世において画期的な分析帰納の進化をみせた。歌学歌論としての「心と詞」の論は、論者の意図をはるかにこえて、日本文学における心と言葉の問題として、後代の文章論、表現論、創作論に末永いかかわりをもつことにもなった。
現代人として小説や評論を書きながら、何かといえば「心と詞」の論を読み返してきたのは、現代の日本の読み書きが、やまと歌の歴史の外にはなく、先人の「心と詞」についての諸論は、日本語による表現と言う共通の苦楽の現場からの声にほかならず、そこに経験の呻(うめ)きを辿(たど)りたいと思っていたからである。おのずからの示唆、啓発を待つ気持ちも少なくはなかった。
しかし実際には、理解できない部分も多いし、日本語の歴史の短くも単純でもないことを今更のように思い知らされるだが、それでも反撥(はんぱつ)と共感との間を揺れながら各人各種の経験にひき入れられていくということを繰り返してきた。つまり、いつ読み返し始めても、「心と詞」の論は読まされてしまうのである。
「心・詞の二つは鳥の左右の翼のごとくになるべきにこそとぞ思うたまへはべりける」と、『毎月抄』に記している定家は、同じ文章の中に「「心を本として詞を取捨せよ」と亡父卿も申し置きはべりし」と父の俊成の姿勢を伝え、自分もどちらかを選べと言われるならば心、「心の欠けたらむよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ」とも述べている。
これは、順徳院の「歌も心を本として、その上詞をもとむれば、自然にやさしきこともあるなり」(『八雲御抄』)とも通じる部分である。
しかし、「歌の大事は、詞の用捨にて侍るべし」(『毎月抄』)と言っている定家に「詞」は「心」の次にしてよいという考えはあるはずもないので、あくまでも、感じる心のないところに鳥の両翼のような心と詞の緊張関係は望めないという、方便としての強調であったと私は見たい。
その著『排蘆小船(あしわけおぶね)』の中で「歌のよしあしは多くは詞にありて情にありて情にあらず」「この故に詞をととのふるが第一といふなり」と言っている本居宣長にも、俊成、定家らの「心と詞」の論は当然考究の素材になっていたと思われる、表現行為の分析帰納としては、定家の穏やかな調和感覚が思いきりよく砕かれて先鋭化している。宣長は「心」を決めるのは「詞」だ、とまでは言っていないが、定家のいう緊張関係は結果として認めざるをえないとして、「心」の分明も不分明も、さし当っては「詞」で探られ、「詞」が定められていくというのが宣長の言いたいところだったとすれば、これはこれで言葉を用いる創作現場の者に耳をかたむかせる説だと言えるだろう。
この頃になって思うのであるが、「心」と「詞」の論としては、物足りなさもありながら、最もととのったものを残した定家も、威勢よく先人に反抗した宣長も、それほど隔たった次元を発見したのではなかったろう。【 丁 】的でもなければ永続的でもない言葉との関係で成り立つ一回きりの表現について二人の感受と思考の二種の誠実は、その誠実さゆえに今なお後代を刺激し続けている。
中世と江戸の論者が、分析と帰納の対象にした「心」と「詞」の関係を、論じてではなく、詠み出すことで表現の素材にしているのが古今集の歌人である。「時雨つつもみづるよりも言の葉の心の秋にあふぞわびしき」における「言の葉の秋」と「心の秋」とのなめらかな提携には、相対的で非永続的な言葉と、同じように相対的で非永続的な心との対等視があり、「言の葉の秋」のみをうたうよりも、「心の秋」ひとつをうたうよりも、深く心と言葉の関係に踏み込んだ直観の軌跡をそこに読むことができる。
(竹西寛子『古典を読む 古今和歌集』より)
問一 Aの和歌にある「渡れ」の活用形を漢字で書きなさい。
問二 (1)Aの和歌の訳文にある【 甲 】に入れるのに最も適当な言葉を二文字で考えて入れなさい。(2)また、(1)を解答する際の根拠となる和歌の表現技法を漢字で書きなさい。
問三 Bの和歌の句切れを指摘しなさい。
問四 【 乙 】に入れるのに最も適当な語を次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 非常に イ 本当に ウ やはり エ もっと オ とても
問五 【 丙 】に入れるのに適当な語句を漢字三文字で書きなさい。
問六 傍線部①「古今集の歌人が、人の心と言葉の関係にどこまで踏み込んでいると考えていたか」とあるが、筆者は、AとBのどちらが「心と言葉の関係に」より踏み込んでいると考えているか。A・B両方の歌から適当な語句を引用しつつ、理由を付して説明しなさい。
問七 作者の解釈における宣長の主張として妥当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 感動と言う前提があって、その結果として言葉が出てくる。和歌はそれを定型にいれたものである。
イ 普段、使用する言葉は、からごころに汚されたものであるので、和歌に使用する言葉くらいは、いにしえの美しいことばを用いるべきであり、心情をありのままに表現することに注意しなくてよい。
ウ 和歌において、心と言葉は緊張感のあるバランスが必要なものである。だが、和歌を作る者は言葉にこだわりすぎるきらいがあるので、心を中心にして、言葉を取捨選択するのが良い。
エ 和歌は言葉を重視すべきである。ただし、心を明らかにするものは、言葉であり、言葉が心の内容を探求し、決定していくからである。
問八 【 丁 】(二か所ある)に入る単語を自分で考え、二文字の熟語で書きなさい。
※実戦問題を記事に追加(2022-08-28)
●まずは動画だけでも。
3 DECK by Crazy Jokers
●3DECK。3DECKSでないところがポイント。
●動画を見てお分かりの通り、トランプが一瞬で空間というか穴のあるトランプめいた謎のものになってしまう。
●わたしは正直に言うがオムニデックのコレクターである。まあ、見せるときもあるが。
●先の記事の写真にはないが、非常に使い勝手の良いオムニデックであるストレートマジックショップ製のものを2種類、持っている。
普通にオムニデックとし使いやすい工夫がされている。透明のものならこのショップのものだけで良いのかもしれない。
他にもメッセージ(「おめでとう」とか「Happy birthday」とか)が刻まれていオムニデックかも同ショップから販売されており、私も1個持っている。
前にも語ったが友人は「Happy birthday」デックをプレゼント用と予備の計2個、持っている。
私は「おめでとう」デックが1個。
ストレートマジックショップは頑張っているなあ。
●虫が入っているオムニデック以外は手を出したくなる。
虫が入っているのを買わないのは、効果が強すぎる(目の前のデックが透明になるだけでも効果はすごい。況や虫入りをや)のと私が虫が苦手だからである。
●今回の3 DECKはちょっと冷静になってから購入しようかと考えている。
●たぶん買うんやろなあ。
●佐藤大輔氏の大ファンである。
●引っ越し業者に本を打ち合わせ不足のせいでかなりの本を廃棄されたのだが(私はこれを大災疫と呼んでいる)、その中にかなりの佐藤大輔氏の本が含まれていた。
さらに言えば大災疫以外の引っ越しでも本を減らしている。
●そんなこんなで佐藤大輔氏の本を再収集しているのだが、一度も所有したことのない本に「天空の城ラピュタ」のゲームブックである。
●いつ探してもなかったんだが、最近、気が付いた。
『天界の迷宮』というタイトルだったのだ。
天空の城ラピュタで探しても見つからないわけだ。
最初からWikipediaでチェックすればよかった。
●というわけで、古本で入手。1987年12月31日発行の本でお世辞にもきれいな状態の本とは言えない。
というか、悪い。
どれくらい悪いかというと本に「廃棄」という判が押されている。
「廃棄」だって。
元の持ち主さんはどこで入手したんだろうね。
●キャラクターシートにパズーの根性点、タイムチェック欄があるあたり、私が昔、やっていたゲームブックと違うなあ。佐藤大輔氏のオリジナルかしらん。
●今回は製品の紹介じゃなくて作品の紹介。
●monthly Magic Lesson DVD VoL202に入っている「未来の記憶・プラス」。
現象は以下の通り。
●このように「3つの山のボトムカードを見ると、全て選んだカードと同じ数字のカードになっているのです!」みたいなマジックが私は好きである。
●しかも、ノーセットでできる。
●さらに言うと私でもできるレベル。
●マンスリーマジックレッスンの説明文に「各位の数の和を求める操作を繰り返して得られる一桁の数字(数字根といいます)」とあるけど、数字根を出す際に「運命数」と言い表すと面白いかもしれない。
●運命数は生年月日の数字根で作られる数秘術占いで使われる数字だったと思う。
●誤解だったらすいませんm(_ _)m
●運命数を説明してからトランプ占いとして演じてみると、不思議感(神秘感)が増すんじゃないかなあ。
●これを実演したら、「運命数みたい」と言われて、運命数は数字根だと思い出した。
●失敗するとしたら最初の設定を間違っているからだと思う。ノーセットだが、前提が一つあるのである。
マジックをしていると、よくある前提なので、大したことはない。
●そこを忘れて失敗した経験が一回あり。
●技術力がない私にとって演じられる上に、クライマックスもある名作だと思う。
●皆さま方もぜひぜひ。