国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま)その49

2025-01-06 22:02:09 | 中高生のための内田樹(さま)

●精選構文風。YouTubeで柳生好之氏という現代文講師の方がいらっしゃると知った。

 実に時代遅れの国語屋である。

 代ゼミの「英語」講師である富田先生の影響を受けて国語を得意科目とされたそうである。

 【単語→構文・文法→解釈】との順番で解説をしていらっしゃるらしい。

 早速、2冊を注文したが、届く前に自分なりに実践してみた。

 これと方法が違うなら、オリジナルと言うことになるか。

 代ゼミの精選構文のテキスト思い出しながらの想像である。

 代ゼミの英語の鬼塚幹彦師の影響が大きいか。あと、初期、田村秀行師の影響も。

※1月8日注

 結果として柳生先生とはアプローチが違っていた。この方法には愛着があるので、今後は私の指導法の一部になるだろう。

●余談だが(飛ばして読んでいいよ)、鬼塚幹彦師はスーパー東大英語を講義されていたのだが、わたしはその裏のスーパー東大現代文の講義を担当していたのである。

 今、考えると恐ろしいことである。

 鬼塚幹彦師と比較すればわたしのレベルなんて...。

●閑話休題。実際に私なりに行ってみた。

●なお、文章は本ブログの「中高生のための内田樹(さま) その40」よりとった。

 

 

 ⓵「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればよい。②反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどにもの知りである。③一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。④けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。⑤というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。(中略)⑥「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。
(内田樹「日本の反知性主義者たちの肖像」)

 

「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればよい。

反~・・・対比を作る。ということは、その反対側があると予測・イメージするように気をつける。

知性

物事を知り、考えたり判断したりする能力のこと。通常は「知性が低い」などのように「高低」でレベルわけされる。

主義・・・継続的にもっている思想上の立場。常常もっている意見・主張のこと。よくある慣用的表現として「主義を曲げない(=主義を一貫させる)」がある。

◆反知性主義

 ここまでを踏まえると「知性と反対の思想上の立場」でかつ、知性が「高い・低い」と違うレベルで語っているということになる。

◆~は・・・主部を表すことが多く、大主語(一文内部に小さい主語=「が・の」による主語を有している場合)を作る。さらに語の性質として「対比」「強調」を表す。「ぼく行く」「ぼく行く」「ぼく行く」

◆~からは・・・ここでは助詞(「の」以外)がついているので、ここでは主語ではなく強調・対比と考える。

◆その逆のもの・・・「その」=反知性主義。「逆」=対比をつくる

◆~ればよい・・・作者の促し表現

◆この文の主語・・・「は」を続けたくないせいか、当たり前の主語なので省略されている。ここでは「読者の方は」が省略されている。

◆術語(専門用語)に注目。ここでは「反知性主義」。特に段落の一文目なので以下、「反知性主義」「反知性主義者」の解説が来る可能性が高い。いわゆる英語の読解で言うトピックセンテンスである。

「反知性主義」ということば一般に「反」知性というように知性がないと考えられがちだが、その逆で知性を有している考えだと読者は考えるのが望ましい。

 

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどにもの知りである。

◆反知性主義者たちは・・・主語。複数形。

◆しばしば・・・同じ事が何度も重なって行われるさま。たびたび。ここでは全肯定ではないと受け取るとよい。「常に」とは違う。

反知性主義者たちはたびたび恐ろしいほどにもの知りである。(したがって「反」知性主義者は知性を持たないという考え方のものではない)

一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。

◆トピック・・・題目。話題。

◆合切袋・・・財布・ちり紙などこまごました携帯品を入れる手提げ袋。関連:一切合切=全部。残らず。すべて。全然。いっさい。ここでは自分(反知性主義者)が有している知識など全部。「袋」は比喩。筆者はちり紙のようなつまらないものを暗示している。なお「合切袋」については「一切合切」の意味から類推する程度でよい。

◆エビデンス・・・「証拠・根拠・証言」のこと。客観的なというニュアンスを含むことが多い。

◆客観・・・「客=外側の存在」から「主観の対象になるもの。主体から独立したもの」。「主観」は「主体=自分(たち)からの見方・考え方」

◆観・・・見方、考え方。例:人間観=人間についての見方、考え方  注意!価値観=良い悪いについて考えること。

◆取り出す・・・「袋」の比喩に対応した表現。

◆できる・・・主語が省略されている。「誰ができる」のか、前の話題から省略しても理解で来る語句である。主題である「反知性主義者」が主語。

反知性主義者はある特定の話題についてこまごまとした手持ちの知識から自分の説を基礎づけるデータや証拠をいくらでも出すことができる。

けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。

◆けれども・・・重要接続表現である「逆接(対立することを結びつける)」の言葉である。対比が生じる。また、多くの場合、その後方が主張になる。

◆それを聴かされも・・・「それ」の内容は「聴く」ものである。したがって、「反知性主義者の自説」である。「ても」は逆接表現なので「それ」をうけいれられないことを予測する。

◆気持ちが晴れる・・・心配や疑念が消えて明るい気持ちになること。ここでは「ない」とあり、納得できないということ。

◆解放感・・・制限や束縛から自由になり(開放され)、ほっとする・のびのびできる気持ちになること。

◆Aし、Bも・・・AとBを並列の関係で結んでいる。並列とは同じ種類の情報を並べるということである。

 したがって、「気持ちが晴れる」と「解放感」は同類である。同類の情報を並べるのは読者が理解する可能性を増やすため。

◆「気持ちが晴れる」「解放感」・・・プラス表現であることが多い。

◆ない・・・否定表現。対比も作る。「反知性主義」の反対語である「知性主義」は「気を晴らす」「解放感」を与えるということもわかる。

というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。

◆というのは~からである。・・・前の文の理由を表す。「というのは」以外にも「なぜなら」も同様の意味。

◆この人・・・「あらゆること~知っている」=③の主語の省略でも推測できると思うが、「反知性主義者」である。

◆すでに・・・「前もって、昔から、以前から」という表現から未来性がないことがわかる。

◆あらゆることについて~知っている・・・他者・他人から「教わる」などの要素がない。

「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。

◆あなたの同意・・・「あなた」は先に挙げた「他者・他人・他の情報源」をしめしている。

◆「もう一度勉強して出直してきます」というようなことは・・・主部ではなくここでは「を」で、目的語。それを強調するために「は」を使用している。

◆残念ながら・・・マイナス表現。「気が晴れる」「解放感」と対比する。

※誰から見てマイナスか。評論文では多くの場合、筆者。評論文で「筆者の主張」が書かれているのである。ただし、現代文の問題だと「次の文章」の範囲でだが。

◆決して~ない・・・強い否定表現。筆者は多くの場合、それと逆のことを望んでいる。つまり、「~、勉強して出直す」にプラスイメージを持っている。また、「残念ながら」とあるので「反知性主義者」はマイナス=作者の主張の逆のベクトルである。

◆筆者にとっての「知性主義者」とはあらゆることをすでに知っているのではなくて、相手の同意が得られない場合、勉強をして出直す存在である。

④~⑥「反知性主義者」は前もってあらゆることを知っているので、もう一度勉強して出直すことをしないし、あなたの同意をなくても良いと考えているので、残念ながら私に解放感を与えることはない。

 

※現代文では「反知性主義とは知性的なものを侮蔑する態度や科学的な根拠に基づかない政策や思想でなく、権威ある知性的なエリートが権力と結びつく『知性主義』、即ち知的な特権階級に対する反発」という意味である。

※ここのような解説を続けていけるとしたらすごい方だなあ。これを書くのに二時間以上かかったよ。ふぅ。(1月8日注:結果として違うようだ) 

※1月8日追加。

 原秀行師は「熟速一致」を一つの読解の理想とされていた。

 伝聞だが、富田一彦先生も同様のことをおっしゃっていたそうである。

 現代文講師には「熟読」を教える講師が少ないのではなかろうか。

 まあ、時間内に教材を教える以上仕方がないのだが。

 一段落に一コマ使う講義があっても良いだろう。

 最終的に「熟速一致」すればよいのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『monthly Magic Lesson Vol.209 』を視聴したよ

2023-02-08 20:15:10 | 中高生のための内田樹(さま)

monthly Magic Lesson Vol.209 Special Live 映像

『monthly Magic Lesson Vol.209』を入手、【修得の難易度】★☆だったもんで。

●上掲動画の10分くらいまでの『続 スリーカードアセンブリー』『ダブルリバース』を覚え、妻に演じる。

●私にもできる程度に易しい。むろん、完璧には難しいけれども。

●先月は会えなかったマジックを趣味とする友人と久しぶりに会おうという気になった。

●動画冒頭のマジックを大切にしないといけないと思ったよ。

●『ダブルリバース』は肝心のセリフ、動作を飛ばさないようにしないと。

 不親切になってしまう。というか、なった。お恥ずかしいかぎり。

●今の私なら『ダブルリバース』で〆るとちょうどいい感じ。

●「カードの向きが揃い、しかも2人が選んだカードだけがきれいに表向きになっているのです!」なんて手品、ずいぶんとやっていなかったもんなあ。

●なのに難易度★。

 合理的なマジック。

 

●人前で見せられるように練習をしようっと。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま)その48

2022-09-01 15:22:22 | 中高生のための内田樹(さま)

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 

「複雑な現実は複雑なまま扱い、焦って単純化しないこと」というのは私が経験的に学んだことの一つである。「その方が話が早い」からである。話は複雑にした方が話が早い。私がそう言うと、多くの人は怪訝な顔をする。でも、そうなのだ。いささか込み入った理路なので、その話をする。
 私は人も知る病的な「イラチ」である。「イラチ」というのは関西の言葉で「せっかち」のことである。どこかへ出かける時も、定時になったらメンバーが全員揃っていなくても置いてでかける。宴会でも時刻が来たら来賓が来ていなくても「じゃあ、乾杯の練習をしよう」と言ってみんなに唱和させる(来賓が着いたら「乾杯の儀に粗相があってはならないので、繰り返しリハーサルをしておきました」と言い訳する)。
 そういう前のめりの人間なので、当然ながら話をする時も最優先するのは「話を先に進めること」である。ぐずぐずと話が停滞することも、一度論じ終わったことを蒸し返されるのも大嫌いである。そういう人間が長く対話と合意形成の経験を積んできた結論が「話を複雑にした方が話は早い」ということであった。
 多くの人は「話を簡単にすること」と「話を早くすること」を同義だと考えているが、それは違う。話は簡単になったが、そのせいで現実はますます手に負えないものになるということはしばしば起こる。現実そのものが複雑な時に、無理に話を簡単にすると、話と現実の間の隔たりが広がるだけである。そこで語られる話がどれほどすっきりシンプルでも、現実との接点が失われるなら、その「簡単な話」にはほんとうの意味で現実を変成する力はない。

 

次のことわざらが現実として、簡単な話にしているのはどれか。記号で選び、答えなさい。

 

ア 「犬も歩けば棒に当たる」という事実から棒には魔術の力を有したもの(ウォンド)と推論とする

イ 「風が吹けば桶屋が儲かる」という事実から桶屋は気象をコントロールできる謎の力を有していると推論する

ウ 「知らぬが仏」という事実から仏の持つ真理を疑ってはいけないと推論する

エ 「花より団子」という事実から団子という食欲の象徴を欲望の在り方全般に広げてよいものと推論する

オ 「千里の道も一歩から」という事実から千里という非現実的なものですら一歩が射程にあると推論する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

答 イ

 過程の複雑さを表していることわざの代表例が「風が吹けば桶屋が儲かる」となるのがポイント。

 

 

※『複雑な話は複雑なまま扱うことについて』についてより。全文はこちら

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま)その47

2021-04-19 20:30:02 | 中高生のための内田樹(さま)

2012年度(一橋大学)

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 先日、「外国語教育と異文化理解」というテーマでのシンポジウムで、「目標文化」というあまりなじみのない言葉を聞いた。「目標文化」というのは、私たちがある外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化のことである。フランス語を学ぶ場合、フランス語は「目標言語」、フランス文化は「目標文化」と呼ばれる。

 という説明を聞いたとき、何か強い違和感を覚えた。発生者は「目標文化に到達するためには、目標言語による教育が必須である」というネイティブの教師が強く主張する教育観を取り上げて、それに対する疑念を語っていた。

 私もそれに頷(うなず)いた。苦い経験があるからである。二十年ほど前、ある語学学校で、フランスのテレビの「お笑い番組」のビデオを見せられて、早口のギャグの聞き取りを命じられた。私がその課題を拒否して、「私はこのような聞き取り能力の習得には関心がない」と告げたところ、教師は激怒して、「市井のフランス人が現に話しているコロキアル(注:口語的)な言葉理解できない人間はフランス文化について理解できないだろう」と述べた。彼女の予言は正しかったことが後にわかるのだけれど、そのとき私がこのフランス人教師と意見が対立したのは、私と彼女が「フランス文化とはこういうものだ」と思い込んでいたのが同じではなかったからである。

 私がフランス語の習得を志したのは、六〇年代の知的なイノベーション(注;刷新)の過半がフランス語話者によってなされているように見えたからである。サルトル、カミュ、レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルト、デリダ、レヴィナスたちの仕事はこの時期に集中しており、彼らの最新の知見にアクセスするためにフランス語運用能力は必須だと思われた。私はこの「知的饗宴(きょうえん)」を欲望してフランス語を学び始めたのであって、市井のフランス人に特段興味があったわけではない(今もない)。

 だから、目標文化は、必ずしもある国語を母語とする人たちの「国民文化」を意味しない。例えば、聖書の原典はヘブライ語やアラム語やコイネー(注:現代ギリシャ語の祖)で書かれているが、それらを母語とする話者たちはもう存在しない。だからといって、聖書を生み出した文化について真の理解に達することはもはや誰にもできないと主張する人はいない。誰もそれを母語としない言語にも固有の文化というものがありうる。

 私は実は今の世界における英語というものが「誰もそれを母語としない言語」ではないかと思っている。それは英語が国際共有語、リンガ・フランカ(注:共通語)だという意味ではない。国際共通語というのは「いかなる国民文化からも自立した、中立的なコミュニケーション・ツール」というふうに定義されるのだろうが、英語はそうではない。英語話者たちもまたある文化の「種族の文化」をめざしてはいるのである。ただ、その「種族」は近代国家的な枠組みでの国民国家ではないということである。

 「英語ができる人」がアメリカ文化やイギリス文化やカナダ文化やニュージーランド文化について造詣(ぞうけい)が深いということはない。大学の英文学科に進学する高校生たちが書く志望理由のほとんどは「英語を生かした職業に就きたい」というものである。彼らは卒業後に例えば香港の航空会社やドバイのホテルに就職する。中国文化やアラビア文化やアラビア半島の文化に興味があってそうしたと言う人はいないだろう。

 少し似た状況が六〇-七〇年代にもあった。この時期、理系で履修者が一番多かった第二外国語は意外なことにロシア語である。それは一九五〇-六〇年代にソ連が宇宙開発や原子力工学でアメリカをしばしば凌駕(りょうが)していたという科学史的事実を映し出している。そののち、ご案内の通り、ソ連崩壊とともに、ロシア語を選ぶ学生は潮を引くようにいなくなった。理系の学生をロシア語に惹きつけたのは、ロシア語運用能力が彼らにもたらすであろう学術上の、あるいは生活上の「利便性」、にべもない言い方をすれば「利益」であったから、その保証がなくなれば、ロシア語を習得する動機は消失する。一方、チェーホフやドフトエフスキーを読むために露文に進む学生たちのロシア語学習動機は、東西冷戦構造や宇宙開発競争とはかかわりがない。

 私たちに言えるのは、どの外国語を学習するかということと、学習者がどのような目標文化を標的にしているかということの間には一意的には相関はないということである。

 私自身はまず英語と漢文を学び、それからフランス語を学び、少しだけヘブライ語を齧(かじ)った。どれも中途半端に終わったが、それらの外国語を習得しようと決意して辞書や教則本を買い込んだときの浮き立つような気分は今でも忘れない。私の場合、それはいつも同じ気分だった。「今の自分でしか思考できない、表現できない、対話できない」という息苦しさから離脱することを期待したのである。私はどこか他の種族の文化を血肉化したかったのではない。種族の文化そのものから離脱したかったのである。「こことは違う場所、今とは違う時間、私とは別の人」に出会うことを切望していたのである。フランスの知識人たちの「知的饗宴」を欲望したのは、それが母語的現実から隔たること最も遠いものに思えたからである。

 その後、私が母語的現実から少しでも身を引き剥(は)がすことができたかどうか、わからない。わかるのは、私が母語を含めてあらゆる言語の「不器用な遣い手」になってしまったということだけである。

___内田樹『目標文化を持たない言語』

問い 上の文章を要約しなさい(二〇〇字以内)。

★寝ぼけ要約(※全文入力した夜に目が覚め、スマホに目もしたもの)

言語を学ぶ際に到達したい目標文化という言葉があるが、違和感がある。それはネイティブの文化とは限らないからである。外国の言語の習得は人の求める利益により、決まるものである。筆者の場合、自分の日常と異なる思考を知るためである。

★本文を消去、省略をしてみた

(題名は『目標文化を持たない言語』であることを意識する)

 「外国語教育と異文化理解」「目標文化」外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化。

 強い違和感を覚えた。

 私たちに言えるのは、どの外国語を学習するかということと、学習者がどのような目標文化を標的にしているかということの間には一意的には相関はないということである。

 他の種族の文化を血肉化したかったのではない。種族の文化そのものから離脱したかったのである。「こことは違う場所、今とは違う時間、私とは別の人」に出会うことを切望していたのである。母語的現実から隔たること最も遠いものに思えたからである。

【短い解答例】
外国語を学ぶ際にその学習を通して到達すべき文化である目標文化という言葉があるが、違和感がある。なぜなら言語を学ぶ理由はネイティブによる文化という一意的なものであるとは限らない、多様な理由があるからである。外国の言語の習得は人の求める利益により、決まるものである。筆者の場合、自分の日常と異なる文化、思考を知るためである。

★解答例

【上の要約に肉付けをしたもの】
外国語を学ぶ際にその学習を通して到達すべきネイティブの文化を表す「目標文化」という言葉があるが、その目標文化という言葉に筆者は違和感を覚えた。なぜなら他言語を学ぶ理由はネイティブによる文化の習得という一意的なものであるとは限らず、人によって多様な理由があるからである。そもそも現存する近代国家と無関係なネイティブのいない言語もある。つまり、外国の言語の習得はその人が求める知的関心や就職、最新の知見などの利益により決まるものであり、「目標文化」とは関係がないことがあるのである。筆者の場合、自らが学ぶ言語を血肉化するためでなく、自分の母語の日常、現実と異なる文化、思考を知るためである。


多様 一意の反対語

ネイティブのいない言語・・・作者がこだわっている言語の例を抽象化

近代国家と無関係・・・注に「現代ギリシャ語の祖」とあるから「近代国家と無関係」

「目標文化を持たない言語」という題名に注意

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま)その46

2021-04-12 19:46:35 | 中高生のための内田樹(さま)

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 人間は運がいいときには「先手を取り」、運が悪くなると「後手に回る」というものではない。「後手に回る」人間は必ず後手に回る。それは一つの器質なのである。というのは、まず「問い」があり、次にそれに対して適切な「答え」をするという先後の枠組みでものごとをとらえる習慣そのものが「後手に回る」ことだからである。
 私たちは子どもの頃から「後手に回る」訓練をずっとされ続けている。「教師の出した問いに正解する」という学校教育の基本スキームそのものが実は「後手に回る」ことを制度的に子どもたちに強いているものだからである。教師の出す問いに正解すれば報酬があり、誤答すると処罰されるという形式で状況に処することに慣れ切った子どもたちは、そのようにして「構造的に後手に回る人間」への自己形成する。それは会社に入った後も変わらない。仕事というのは、すべて上司から「課題」や「タスク」を出された後に、それに適切な「回答」をなすという形式でなされ、上司によってその成否を査定されるものだと信じているサラリーマンたちは全員が「後手に回る」人である。
 なぜ日本社会ではこれほど念入りに「後手に回る」訓練を国民に強いるのか? 難しい話ではない。権力者に頤使されることに心理的抵抗を感じない人材を育成するためである。「問いと答え」というスキームにすっぽり収まって生きていると、「問いを出す上位者」と「答えを求められる下位者」の間で非【 A 】的な権力関係が日々再生産されているということに気づかない。でも、そうなのである。

 

問い 空欄【 A 】の中に入るのに適当な語句を選びなさい。

ア 対象  イ 対称  ウ 対照  エ 対症  オ 対償

 

 

答え  イ

ア 対象(目標、相手、オブジェクト)

イ 対称(釣り合う、シンメトリー)

ウ 対照(照らし合わせる、コントラスト)

エ 対症(症状に対処すること)

オ 対償(「対価」に同じ。「対価(他人に財産・労力などを提供した報酬として受け取る財産上の利益)」

 

 

全文はこちら→『後手に回る政治』

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま)その45

2021-02-10 20:35:43 | 中高生のための内田樹(さま)

食における創造とは何か。
食文化とは「不可食のものを可食化するための創意工夫」と「みたことのない食材を何とか料理してしまうための創意工夫」によって構築されたものであり、その根本にあるのは「食えるものは何でも食う」という不退転の決意である。
それは人類史の99%が「飢餓ベース」であったことを考えれば当然のことである。
トマトがイタリアに入ってきたのは大航海時代のことである。
メキシコから持ち帰ったのである。最初は食用ではなく、観賞用であった。しかし、きわめて生命力が強く、果実が多いので、これを食用にしようとイタリア人が200年にわたって品種改良の結果、こんにちのトマトとなったのである。
だから、ヨーロッパでトマトが食用として受容されたのは18世紀のことなのである。
ジャガイモがユカタン半島からスペインに渡来したのは16世紀。唐辛子はコロンブスが新大陸から1493年に持ち帰った。
前に北イタリアで「スローフード」運動というものがあった。
マクドナルドの出店に反対して、イタリアの伝統的な食文化を守れという運動であった。
しかし、外来の食物を排除して、伝統的なレシピを守れという場合の「伝統」はどこまで遡るのか。
もし中世まで遡るのだとしたら、この「スローフード」のレシピにはトマトもジャガイモも唐辛子も使用してはならないことになるが、それでよろしいのか。
その場合は、「じゃあ、『伝統』は18世紀までにします」とか「19世紀まで」とか決めることになるが、その恣意的決定の根拠となるのは要するに「現代人が喰って美味いものが『伝統』と認定され、喰って不味いものは『伝統』から排除される」ということである。



問い 本文で最後の一文が省略されているが、次の中から最も適当な一文を選びなさい。


ア 夫子ご自身が伝統伝統と主張するのは勝手だが、中世にはないものだと思っていても無駄ではあるまい。
イ 夫子ご自身が美味しいものだけを食べていくことを拒否してスローフードにこだわるのは実に納得のいくものである。
ウ ファーストフードもやがて伝統料理と言えるのだから夫子諸君も覚悟しておいた方が良いともいえるだろう。
エ 自分ひとりで「うまいまずい」を言い募るのは夫子ご自身のご勝手だが、それを「伝統の味」とか大仰に呼ぶのは止めた方がいい。
オ 夫子諸君は食べるものがない飢餓状態から食の文化を築き上げた先人たちのことを忘れて「伝統」と簡単に言うべきではない







答え エ

直前が根拠なので易しい問題だよ。「現代人が喰って美味いものが『伝統』と認定され、喰って不味いものは『伝統』から排除される」ことを批判的(スローフードを批判的にしていることからわかるね)に捉えた選択肢を選ぶ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま)その44

2020-12-31 12:02:11 | 中高生のための内田樹(さま)

 社会的共通資本は集団が存続するために絶対に必要なものです。だから、安定的に、継続的に、専門家によって、専門的な知見と技術に基づいて管理維持されなければならない。とにかく急激に変えてはならない。だから、社会的共通資本の管理運営に政治とマーケットは関与してはならない。
 それは別に政治家や市場が下す判断がつねに間違っているからではありません(そんなはずがない)。そうではなくて、政治過程も経済活動も複雑過ぎて、次に何が起きるか予測不能だからです。そういう予測不能なシステムのことを「複雑系」と呼びます。わずかな入力差が劇的な出力差をもたらすからです。「ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすことはありうるか?」というのは予測可能性についての有名なフレーズですが、複雑系ではそういうことが起こる。だからこそ人々は政治や経済に熱中するわけです。
 でも、空気がなくなるとか、海が干上がるとか、森が消滅するとか、ライフラインが止まるとか、学校がなくなるとか、病院がなくなるということがあってはならない。当然ですね。それでは人間が生きてゆけないから。だから、社会的共通資本を複雑系とはリンクさせてはならないということになります。
 政治は「よりよき世界」をめざした活動です。経済は「より豊かな世界」をめざした活動です。たぶん主観的にはそうだと思います。初発の動機は、いずれも向上心や善意や冒険心です。悪くない。ぜんぜん悪くない。でも、歴史が教えるように、めざした目標がどれほど立派でも、複雑系においては、予測もしない結果が出て来る。必ず予測もしなかった結果が出てきてしまう。よりよき世界をめざした政治活動が戦争やテロや民族浄化をもたらしたことも、より豊かな世界をめざした経済活動が恐慌や階層分化や環境破壊をもたらしたことも、ともに歴史上枚挙に暇がありません。
 それでもいい、何か劇的な変化が欲しい。それがないと退屈で死んでしまう・・・というのがたぶん人間の「業」なのでしょう。僕にだって、その気持ちはわかります。だから「止めろ」とは言いません。でも、お願いだから、社会的共通資本にだけはできるだけ手を付けないで欲しい。

(『公共と時間について』より)

※原文の強調部分を変更している箇所がある。

 

問い 傍線部「お願いだから、社会的共通資本にだけはできるだけ手を付けないで欲しい。」のは何故ですか。

 

 

 

 

【解答例】

政治や市場経済がよりよき世界、より豊かな世界を求めて善意や冒険心を持って行動し、集団が存続するために必要なはずの社会的共通資本を変更すると、社会的共通資本は複雑系に組み入れられるために何がおこるかわからず、それが不安定で断絶したものになってしまうから。

 

『公共と時間について』の全文はこちら。

 

※年内、最後の記事が「中高生のための内田樹(さま)」になってよかったよかった。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま)その43

2020-09-09 19:48:26 | 中高生のための内田樹(さま)

某有名私立大学Wの問題である。さすがに中学生には難しいか。「中高生のための」なのにね。

 

次の文章を読んで、あとの問いに答えよ。

 

 私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」はいわば「私という物語」の読者である。読者が本を読むように、私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。

 それは「犯人がなかなか分からない推理小説」を読んでいる経験に似ている。怪しい人間が何人も登場するが、どれが犯人かさっぱり見当がつかず、プロットはますます錯綜(さくそう)してきて、こんな調子で果たして残された紙数でちゃんと犯人は言い当てられ、不可解な密室トリックのすべては明かされるのか、読者は不安になる。しかし、その不安は本を読む楽しみを(A)ゲンサイするものではない。それは、どれほど容疑者がひしめきあい、どれほど密室トリックが複雑怪奇であっても、「探偵が最後には犯人がみごとに言い当てること」についてだけは、読者は満腔(まんこう)の確信を持って物語を読んでいるからである。

 結末がまだ分からないにもかかわらず、私たちは「いかにも結末らしい結末」が物語の最後に私たちを待っているであろうということについては、いささかの不安も感じていない。私たちが物語を楽しむことができるのは、仮想的に想定された「物語を読み終えた私」が未来において、現在の(1)読書の愉悦を担保してくれるからである。もし、終章で探偵が犯人を名指しして、すべての伏線の意味を明らかにすることなしに小説が終わってしまう「かもしれない」と思っていたら、私たちは推理小説が愉しむことはできないだろうし、そもそも、そんな小説を手に取りさえしないだろう。

 私たちの人生もそれと同じく、「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されている。けれども、それにもかかわらず私たちが日々のどうということもない些末(さまつ)な出来事をわくわく楽しめるのは、それが「(2)巨大なドラマの伏線」であったことを事後的に知って「なるほど、あれはそういうことであったのか」と腑に落ちている「未来の私」を想定しているからである。私たちの日々の散文的な、繰り返しの多い生活に厚みと奥行きを与えるのは、今生きている生活そのもののリアリティではない。そうではなくて、「私の人生」という物語を読み終えた私である。

 ジャック・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」という言い方で説明したことがある。「前未来形」というのは、「明日の三時に私はこの仕事を終えているだろう」というような文型に見られるような、未来のある時点においてすでに完了した動作や状態を指示する時制のことである。

 私たちが自分の過去を思い出すとき、私たちはむろん「過去に起きた事実」をありのままに語っていない。私たちが過去の思い出話を語るとき、私たちは聴衆の反応に無関心であることはできないからだ。ある(B)逸話について聴き手の反応がよければ「おお、この種の話は受けがいいな。では、この線で行こう」ということになるし、ある逸話についての反応がかんばしくなければ「おっと、この手の自慢話はかえって人間の価値を下げるな」と軌道修正を行う。私たちが自分の過去として思い出す話は。要するにその話を聞き終わったときに、聴き手が私のことを「どういう人間だと思うようになるか」をめざしてなされるのである。話を聴き終わった未来の時点で、聴き手から獲得されるであろう【 X 】をめざして、私は自分の過去を思い出す。このような人間の記憶のあり方をラカンは「前未来形で語られる記憶」と称したのである。

 それと同じことが、私たちが私たち自身の現在を物語として「読む」ときも起きている。私たちは、今自分の身に起きているある出来事(人間関係であれ、恋愛事件であれ、仕事であれ)が「何を意味するのか」ということは、今の時点で言うことはできない。それらの事件が「何を意味するのか」は一〇〇%文脈依存的だからである。

 「その事件が原因で私はやがてアメリカに旅立つことを(C)ヨギなくされたのであった」とか「その恋愛事件がやがて私の身に思いもよらぬ悲劇を引き起こそうとは、そのときは誰一人知るよしもなかった」とか「【 Y 】」とかいうナレーションは、物語を最後まで「読んだ私」にしか付けることができない。

 私たちはその「ナレーション」をリアルタイムでは聞くことができない。

 しかし、それにもかかわらず、私たち自身が恋愛事件のクライマックスや喧嘩(けんか)の修羅場を迎えているときに、その場の登場人物の全体を(D)俯瞰(ふかん)するカメラアイから自分を含む風景を見おろし、そこに「ナレーション」がかかり、BGMが聞こえてくるような「既視感」にとらわれることがある。というか、そのような既視感にとらわれることがなければ、私たちはそもそも自分が「クライマックス」に立ち会っているとか、「修羅場」に向かっているというような文脈的な位置づけをすることさえできないはずである。

(内田樹『街場の現代思想』)

問一 傍線部A・Cを漢字に直せ。

問二 傍線部B「逸話」・D「俯瞰」の意味として最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つずつ選び、記号で答えよ。

B イ 皮肉な言い回しを含んだ批評的な話

ロ おもしろおかしい荒唐無稽(むけい)な空想話

ハ そのものの特色を最もよく現すたとえ話

ニ 世間にあまり知られていない興味深い話

D イ 全体を上から見る

  ロ 定期的に一点から見る

  ハ さまざまな角度から総合して見る

  ニ 中心点を決めて前後を見る

問三 傍線部(1)「読書の愉悦を担保してくれる」の内容として最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。

 イ 読書すること自体で学べる内容を娯楽に優先して確保してくれる

 ロ 読書することにより必要な情報を効果的に摂取する

 ハ 読書することで感じる快感をすべてのものに優先する

 ニ 読書すること自体で得られる楽しみを保証してくれる

問四 傍線部(2)「巨大なドラマの伏線」の内容として最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。

 イ 人の一生において後に起こる出来事をあらかじめほのめかしておくこと。

 ロ 人の一生においてすでに起こった出来事をすべて肯定的にとらえること。

 ハ 人の一生においてすでに起こったことと今後起こることを並列すること。

 ニ 人の一生において起こることはすべて予想不可能であると達観すること。

問五 空欄【 X 】に入る最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。

 イ 先験的な洞察や直感や配慮  ロ 網羅的な管理や指導や経営

 ハ 人間的な信頼や尊敬や愛情  ニ 社会的な賞賛や評価や報酬

問六 空欄冒頭【 Y 】に入る最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。

 イ 私は常に賞賛と喝采とを期待して、一瞬たりとも努力を惜しまない勤勉な役者であ   る

 ロ いったいどれくらいこの会社に投資したら、その傾いた経営状態を改善させることになるのだろうか

 ハ 結婚式が滞りなく進行するために大切なのは、司会者の人選を間違えないことである

 ニ 結果的にはそのとき病気になって転地したことが幸いして私は震災を免れたのである

問七 本文が述べている内容と合致するものが次のイ~ニの中に一つある。それはどれか。記号で答えよ。

 イ 人生の途上では、将来についての予測をすることは極めて困難である。私たちは、新たな局面を切り開いていこうとしながらも、結局は「文脈依存的」な選択に陥りがちなので、常に自分をはげましてくれる周囲の意見を参照しなければならない。

 ロ 私たちは、人生の結末をともすれば悲観的にとらえがちである。しかし、人生は「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されているので、先々のことに思いわずらうよりも、繰り返しの多い生活に日々努力して厚みと奥行きを与える方がよい。

 ハ 私たちは、自分の人生を振り返るとき、とるにたりないような小さなできごとや重大なことがらを、自身の意識の中で組み合わせて、独自の「物語」を構成している。そして、現実に人生を生きつつ、同時にその「物語」を味わってもいるのである。

 ニ 恋愛や喧嘩の際に、その先、それらがどのような展開を見せるかについては全く予想不可能である。にもかかわらず、私たちの中に「ナレーション」が聞こえてくるとすれば、それらは「既視感」にとらわれた恣意(しい)的なものなので、信じてはいけない。

 

 

 

 

問一 A 減殺  C 余儀(他の方法のこと)

問二 B ニ  D イ

問三 ニ  愉悦・・・楽しみ  現在読書をしているのは後で犯人がわかるという保証があるから。

問四 それ=些末な出来事=巨大なドラマの伏線

 未来の私=巨大なドラマ=×今生きている生活そのもののリアリティ

すでに起こった× ロ・ハ

予想不可能×

あらかじめほのめかしておくこと=伏線  ○イ

問五 自慢話は値打ちを下げる  聴き手(社会×)  ○ハ

問六 問四・・・伏線   とか(並列  恋愛事件が原因で悲劇

 解答 ニ 病気によって転地が原因で震災を免れた

問七 イ 文脈依存・・・将来を予測している  ×

ロ 悲観的? 日々努力

ハ ○ 構造化=「物語」を構成

ニ 信じてはいけない×

 

 

「中高生のための内田樹(さま) その31」も参照のこと

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま) その42

2020-08-10 16:34:01 | 中高生のための内田樹(さま)

 

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 

 資本主義的に考えたら、別に土地なんか共有しなくてもいいわけです。というか、共有しない方がいい。共有して、共同管理するのなんて、手間暇がかかるばかりですから。使い方についてだって、いちいち集団的な合意形成が必要です。みんなが同意してくれないと、使い方を変えることもできない。

 そういうのが面倒だと言う人が「共有しているから使い勝手が悪いんだよ。それよりは、みんなで均等に分割して、それぞれが好きに使ってもいいということにしよう」と言い出した。

 実際に英国で近代になって起きた「囲い込み(enclosure)」というのは、この「コモンの私有化」のことでした。それが英国全土で起きた。その結果、私有地については、土地の生産性は上がりました。まあ、そうですよね。「オレの土地」なわけですから、必死に耕して、必死に作物を栽培し、費用対効果の高い使用法を工夫した。

 資本主義的にはそれで正解だったんです。

 でも、それと引き換えに、「私たち」と名乗る共同主観的な主体が消滅した。もともと共同幻想だったんですから、「そんなもの」消えても別に誰も困るまいと思った。ただ、気が付いたら、村落共同体というものが消滅してしまっていた。みんなが自分の金儲けに夢中になっているうちに、それまで集団的に共有し、維持していた祭礼や儀式や伝統芸能や生活文化が消えてしまった。相互扶助の仕組みもなくなってしまった。

 そのうち、生産性の高い農業へのシフトに失敗した自営農たちが土地を失って、小作農に転落し、あるいは都市プロレタリアとなって流民化した。そうやって英国における農業革命、産業革命は達成されたのでした。資本主義的には、それで「めでたし・めでたし」なのですが、ともかくそのようにしてコモンは消滅した。

 その後、「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」都市プロレタリアの惨状を見るに見かねたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって「コモンの再生」が提言されることになりました。それが「共同体主義」すなわち「コミュニズム」です。

「共産主義」という訳語だと、僕たちにはぴんと来ません(日常生活に「共産」なんて普通名詞がありませんからね)。けれども、マルクスたちが「コミュニズム(Communism)」という術語を選んだ時に念頭にあったのは、抽象的な概念ではなく、英国の「コモン」、フランスやイタリアの「コミューン(Commune)」という歴史的に実在した制度だったのです。

 

問い 傍線部「私たち」とはどのような人たちですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答例】

生産性を重視する資本主義的で合理主義的な「オレの土地」という私有地を持たず、集団的な合意形成という共同幻想に基づいた相互扶助の仕組みを持った共有地である「コモン」を持った人たち。

 

 

全文『「コモンの再生」まえがき』はこちら

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中高生のための内田樹(さま) その41

2020-03-16 13:28:04 | 中高生のための内田樹(さま)
●教育系の小論文。問題のみ。



次の文章を読んであとの問いに答えなさい。

 誰だって教師になれる。そうでなければ困る
 人間たちが集団的に生き延びてゆくためにほんとうに重要な社会制度は「誰でもできるように」設計されている。そうでなければ困る。例外的に卓越した資質を持っているに人間しか社会制度の枢要な機能を担い得ないという方針で社会制度が設計されていたら、とっくの昔に人類は滅亡しているだろう。
 以前、大相撲の力士をしていた方から不思議な話を伺ったことがある。彼は「相撲取りというのは、ある程度身体が大きければ、誰でもプロになれるのです」という驚くべき事実を教えてくれた。
 「サッカーや野球であれば、生得的に高い運動能力を持っていなければプロにはなれません。でも相撲は違う。生得的資質が凡庸であっても、プロになれる。とてつもなく強くなれる。そうなるように相撲の身体技法は合理的にプログラムされているのです。」
 私は驚き、そののち深く納得した。
 確かにその通りである。そうでなければ困る。
 もし、十万人に一人というような例外的にすぐれた身体能力を持ったものしか相撲の力士になることができなかったら、それが1500年続くということはありえなかったはずだからである。相撲が例外的天才しか習得にできない特殊な技能であったら、一世代だけでも「例外的に卓越した身体能力の保持者」が相撲の道に入らなければ、その時点で相撲の伝統は断絶してしまったであろう。
 相撲において最優先するのは「たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについてでも、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム」を次世代に継承することである。ある時代に伝説的な力士がひとり出現して、その人が人間の身体には「これほどのこと」ができることを示せれば、それで「終わり」というのでもよいなら、ある意味話は簡単である。だが、相撲は一人の天才のパフォーマンスを神話的に語り継ぐことよりも、力士養成プログラムを「存続させること」を最優先した。それは相撲という呪鎮のための神事であり、大衆芸能であり、格闘技であり、見世物である複素的なこの技芸が日本列島から決して失われてはならないという強烈な使命感を力士たちを貫いていたからである。
 私自身はなぜ相撲が世代を超えて継承されなければならないのか、その理由をみなさんに向かって説得力のある言葉で語るだけの用意がない。だが、「決して失われてはならぬ制度については、『その気になれば、誰でも十分にそれを担う資格がある』ように構造化されていなければならない、という人類学的知見には深く同意する。
 学校教育もまた、そのような意味で「決して失われてはならない制度」である。それなしでは人間たちが集団的に生き延びてゆくことができない制度である。
学校教育の行われない社会集団を想像してみればわかる。そこでは幼い成員たちは成熟への道筋を示されることなく、遊興に耽り、怠惰に過ごしても咎められない。子供たちは生きるための基本的な技術も知恵も教わらないままに無能な成人になり、いずれ餓え死にするか、他の攻撃的な部族に襲われて奴隷になるか殺されて終わる。
 学びのシステムを持たない集団は存続することができない。
 だとすれば、学校教育については、「誰でも、一定の手順を覚えさえすれば、教える仕事は果たせる」ように制度設計されていなければならないはずである。例外的に知的であったり、洞察力があったり、共感性が高かったりする人間でなければ、そのような仕事は務まらないというルールを採用していれば、人類はとうに消滅していただろう。



問一 傍線部「誰だって教師になれる」のはなぜですか。200字以内で述べなさい。

問二 傍線部「決して失われてはならない制度」とあるが、それはどういうことか。また、それに対してあなたの意見を書きなさい。


●全文は『教育の奇跡』


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする