国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

不調の気配

2024-08-10 17:42:48 | 中高生のための内田樹(さま)

●頭で考えないと体も心も動かないという難儀な体質になっておりまして。

●落語調のマジックを考え、サゲは決まっても枕ができず。

 うー。

 

●こけおどしがほしい。

 特にオープニングで、観客をびっくりさせられるマジック。

 びっくり箱タイプ。

 不思議ならなおよし。

 うーむ。

 

●最近、マジックを購入していないせいか、体調が悪い。

 なもんで、一個、買っちった。

 うんうん。

 

 

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手数だ。手数。

2024-03-13 10:19:37 | 中高生のための内田樹(さま)

●本日は義父の誕生日。
家族一同集まる。
●そうすると’(現在は)かわいい姪っ子、甥っ子たちもくるわけで。
 
●大人たちが盛り上がっている間、手品で相手をするつもり。
 
●去年の12月10日、元旦と手品を楽しんだお子さまたちである。
準備ぐらいはしておかないと。
見せる見せないは置いておいて。
 
●まずは手数、手数だ。
 
 
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日記です

2024-03-02 10:15:13 | 中高生のための内田樹(さま)

●クレジットカードの関係で昨日は消費日。

●マジックグッズ3種類を購入、マジックを趣味とする友人の分が半分。

マジックウォンド ミステリー / セオマジック

 これは私用。演技力はいるけど、私好みの仕掛けのはず。

 仕掛けの推測が間違っていなければ、必携の品。

●もう一つはネストワレット。

The ネストワレット / セオマジック

 これを持っていなかったのは不明な限り。

 オーソドックスな手順だけで十分も面白いとみた。

●あと、マンスリーマジックレッスンショッパーズで紀良さんの作品集『4B 』を購入。

 友人のため。これは代金ももらう。

●古文の本を複数購入。

 これで読解で気になっている本は一通り入手したか。

 古文の読解で気をつけないといけないのは古文「解釈」と微妙に違うのである。

 古文解釈と言うのは古文を訳す力と言うか。

 傍線部を訳すときに文法力、単語力を駆使して主語目的語(動作主、動作対象)などを文脈に沿っておぎなうという面を重視している気がする。

●一方、古文読解は文法力、単語力は当然として分からなくても推測したり、無視したりしてでも全体の意味を把握する力と言うか。

 速読法もここに入る。そんな気がする。

●むろん、解釈力が皆無だと、読解はできないのだが。

●現代文の力がかなり生きる気がしている古文読解。

 あとは古文解釈とのバランスの問題である。

●今回購入した本でわくわくしているのが碩学小西甚一先生の『古文の読解』である。

●あと、解釈力重視になるのであろうが駿台の『古文教則本』である。

 現役時代は土屋師の『222』シリーズだけで勉強してきたので『古文教則本』をバカにしてきたので、それだけ楽しみなのである。

 腕を見せてもらおうか、駿台のクラシック参考書の力とやらを。

●あと、『アフターパーティー10周年企画』を視聴。

 ALICEさんのマジックも見られ、ショーも見られるという豪華さ。

 これで無料なのは心苦しく投げ銭をする。

●玄蕃蔵の醬油が切れてきたので醤油を購入。

●マジックグッズ、古文の参考書、投げ銭、醤油。

 

 

●で、だ。

●今月分のお金はもう、使い果たしました。

 

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MAMIさんのカードが

2024-02-16 12:17:52 | 中高生のための内田樹(さま)

 
●大昔、池袋東急ハンズでウィザードイン製品を買ったときにおまけでついていた気がするパケットトリック。
 今、ケースを整理をしていたら(再?)発見。
 
●4枚のMAMIさんカードが4枚のMAMIさんクィーンにいっぺんに変わるさまは効果的かと。
 
●ただ、マンガキャラを使用したパケットがおいらに似合わなかったから実戦使用はしたかなあ。
 
●ほら、オタクキャラではないから。
 
 ほんとほんと。
 
 
 
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『monthly Magic Lesson Vol.209 』を視聴したよ

2023-02-08 20:15:10 | 中高生のための内田樹(さま)

monthly Magic Lesson Vol.209 Special Live 映像

『monthly Magic Lesson Vol.209』を入手、【修得の難易度】★☆だったもんで。

●上掲動画の10分くらいまでの『続 スリーカードアセンブリー』『ダブルリバース』を覚え、妻に演じる。

●私にもできる程度に易しい。むろん、完璧には難しいけれども。

●先月は会えなかったマジックを趣味とする友人と久しぶりに会おうという気になった。

●動画冒頭のマジックを大切にしないといけないと思ったよ。

●『ダブルリバース』は肝心のセリフ、動作を飛ばさないようにしないと。

 不親切になってしまう。というか、なった。お恥ずかしいかぎり。

●今の私なら『ダブルリバース』で〆るとちょうどいい感じ。

●「カードの向きが揃い、しかも2人が選んだカードだけがきれいに表向きになっているのです!」なんて手品、ずいぶんとやっていなかったもんなあ。

●なのに難易度★。

 合理的なマジック。

 

●人前で見せられるように練習をしようっと。

 

 

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中高生のための内田樹(さま)その48

2022-09-01 15:22:22 | 中高生のための内田樹(さま)

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 

「複雑な現実は複雑なまま扱い、焦って単純化しないこと」というのは私が経験的に学んだことの一つである。「その方が話が早い」からである。話は複雑にした方が話が早い。私がそう言うと、多くの人は怪訝な顔をする。でも、そうなのだ。いささか込み入った理路なので、その話をする。
 私は人も知る病的な「イラチ」である。「イラチ」というのは関西の言葉で「せっかち」のことである。どこかへ出かける時も、定時になったらメンバーが全員揃っていなくても置いてでかける。宴会でも時刻が来たら来賓が来ていなくても「じゃあ、乾杯の練習をしよう」と言ってみんなに唱和させる(来賓が着いたら「乾杯の儀に粗相があってはならないので、繰り返しリハーサルをしておきました」と言い訳する)。
 そういう前のめりの人間なので、当然ながら話をする時も最優先するのは「話を先に進めること」である。ぐずぐずと話が停滞することも、一度論じ終わったことを蒸し返されるのも大嫌いである。そういう人間が長く対話と合意形成の経験を積んできた結論が「話を複雑にした方が話は早い」ということであった。
 多くの人は「話を簡単にすること」と「話を早くすること」を同義だと考えているが、それは違う。話は簡単になったが、そのせいで現実はますます手に負えないものになるということはしばしば起こる。現実そのものが複雑な時に、無理に話を簡単にすると、話と現実の間の隔たりが広がるだけである。そこで語られる話がどれほどすっきりシンプルでも、現実との接点が失われるなら、その「簡単な話」にはほんとうの意味で現実を変成する力はない。

 

次のことわざらが現実として、簡単な話にしているのはどれか。記号で選び、答えなさい。

 

ア 「犬も歩けば棒に当たる」という事実から棒には魔術の力を有したもの(ウォンド)と推論とする

イ 「風が吹けば桶屋が儲かる」という事実から桶屋は気象をコントロールできる謎の力を有していると推論する

ウ 「知らぬが仏」という事実から仏の持つ真理を疑ってはいけないと推論する

エ 「花より団子」という事実から団子という食欲の象徴を欲望の在り方全般に広げてよいものと推論する

オ 「千里の道も一歩から」という事実から千里という非現実的なものですら一歩が射程にあると推論する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

答 イ

 過程の複雑さを表していることわざの代表例が「風が吹けば桶屋が儲かる」となるのがポイント。

 

 

※『複雑な話は複雑なまま扱うことについて』についてより。全文はこちら

 

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中高生のための内田樹(さま)その47

2021-04-19 20:30:02 | 中高生のための内田樹(さま)

2012年度(一橋大学)

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 先日、「外国語教育と異文化理解」というテーマでのシンポジウムで、「目標文化」というあまりなじみのない言葉を聞いた。「目標文化」というのは、私たちがある外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化のことである。フランス語を学ぶ場合、フランス語は「目標言語」、フランス文化は「目標文化」と呼ばれる。

 という説明を聞いたとき、何か強い違和感を覚えた。発生者は「目標文化に到達するためには、目標言語による教育が必須である」というネイティブの教師が強く主張する教育観を取り上げて、それに対する疑念を語っていた。

 私もそれに頷(うなず)いた。苦い経験があるからである。二十年ほど前、ある語学学校で、フランスのテレビの「お笑い番組」のビデオを見せられて、早口のギャグの聞き取りを命じられた。私がその課題を拒否して、「私はこのような聞き取り能力の習得には関心がない」と告げたところ、教師は激怒して、「市井のフランス人が現に話しているコロキアル(注:口語的)な言葉理解できない人間はフランス文化について理解できないだろう」と述べた。彼女の予言は正しかったことが後にわかるのだけれど、そのとき私がこのフランス人教師と意見が対立したのは、私と彼女が「フランス文化とはこういうものだ」と思い込んでいたのが同じではなかったからである。

 私がフランス語の習得を志したのは、六〇年代の知的なイノベーション(注;刷新)の過半がフランス語話者によってなされているように見えたからである。サルトル、カミュ、レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルト、デリダ、レヴィナスたちの仕事はこの時期に集中しており、彼らの最新の知見にアクセスするためにフランス語運用能力は必須だと思われた。私はこの「知的饗宴(きょうえん)」を欲望してフランス語を学び始めたのであって、市井のフランス人に特段興味があったわけではない(今もない)。

 だから、目標文化は、必ずしもある国語を母語とする人たちの「国民文化」を意味しない。例えば、聖書の原典はヘブライ語やアラム語やコイネー(注:現代ギリシャ語の祖)で書かれているが、それらを母語とする話者たちはもう存在しない。だからといって、聖書を生み出した文化について真の理解に達することはもはや誰にもできないと主張する人はいない。誰もそれを母語としない言語にも固有の文化というものがありうる。

 私は実は今の世界における英語というものが「誰もそれを母語としない言語」ではないかと思っている。それは英語が国際共有語、リンガ・フランカ(注:共通語)だという意味ではない。国際共通語というのは「いかなる国民文化からも自立した、中立的なコミュニケーション・ツール」というふうに定義されるのだろうが、英語はそうではない。英語話者たちもまたある文化の「種族の文化」をめざしてはいるのである。ただ、その「種族」は近代国家的な枠組みでの国民国家ではないということである。

 「英語ができる人」がアメリカ文化やイギリス文化やカナダ文化やニュージーランド文化について造詣(ぞうけい)が深いということはない。大学の英文学科に進学する高校生たちが書く志望理由のほとんどは「英語を生かした職業に就きたい」というものである。彼らは卒業後に例えば香港の航空会社やドバイのホテルに就職する。中国文化やアラビア文化やアラビア半島の文化に興味があってそうしたと言う人はいないだろう。

 少し似た状況が六〇-七〇年代にもあった。この時期、理系で履修者が一番多かった第二外国語は意外なことにロシア語である。それは一九五〇-六〇年代にソ連が宇宙開発や原子力工学でアメリカをしばしば凌駕(りょうが)していたという科学史的事実を映し出している。そののち、ご案内の通り、ソ連崩壊とともに、ロシア語を選ぶ学生は潮を引くようにいなくなった。理系の学生をロシア語に惹きつけたのは、ロシア語運用能力が彼らにもたらすであろう学術上の、あるいは生活上の「利便性」、にべもない言い方をすれば「利益」であったから、その保証がなくなれば、ロシア語を習得する動機は消失する。一方、チェーホフやドフトエフスキーを読むために露文に進む学生たちのロシア語学習動機は、東西冷戦構造や宇宙開発競争とはかかわりがない。

 私たちに言えるのは、どの外国語を学習するかということと、学習者がどのような目標文化を標的にしているかということの間には一意的には相関はないということである。

 私自身はまず英語と漢文を学び、それからフランス語を学び、少しだけヘブライ語を齧(かじ)った。どれも中途半端に終わったが、それらの外国語を習得しようと決意して辞書や教則本を買い込んだときの浮き立つような気分は今でも忘れない。私の場合、それはいつも同じ気分だった。「今の自分でしか思考できない、表現できない、対話できない」という息苦しさから離脱することを期待したのである。私はどこか他の種族の文化を血肉化したかったのではない。種族の文化そのものから離脱したかったのである。「こことは違う場所、今とは違う時間、私とは別の人」に出会うことを切望していたのである。フランスの知識人たちの「知的饗宴」を欲望したのは、それが母語的現実から隔たること最も遠いものに思えたからである。

 その後、私が母語的現実から少しでも身を引き剥(は)がすことができたかどうか、わからない。わかるのは、私が母語を含めてあらゆる言語の「不器用な遣い手」になってしまったということだけである。

___内田樹『目標文化を持たない言語』

問い 上の文章を要約しなさい(二〇〇字以内)。

★寝ぼけ要約(※全文入力した夜に目が覚め、スマホに目もしたもの)

言語を学ぶ際に到達したい目標文化という言葉があるが、違和感がある。それはネイティブの文化とは限らないからである。外国の言語の習得は人の求める利益により、決まるものである。筆者の場合、自分の日常と異なる思考を知るためである。

★本文を消去、省略をしてみた

(題名は『目標文化を持たない言語』であることを意識する)

 「外国語教育と異文化理解」「目標文化」外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化。

 強い違和感を覚えた。

 私たちに言えるのは、どの外国語を学習するかということと、学習者がどのような目標文化を標的にしているかということの間には一意的には相関はないということである。

 他の種族の文化を血肉化したかったのではない。種族の文化そのものから離脱したかったのである。「こことは違う場所、今とは違う時間、私とは別の人」に出会うことを切望していたのである。母語的現実から隔たること最も遠いものに思えたからである。

【短い解答例】
外国語を学ぶ際にその学習を通して到達すべき文化である目標文化という言葉があるが、違和感がある。なぜなら言語を学ぶ理由はネイティブによる文化という一意的なものであるとは限らない、多様な理由があるからである。外国の言語の習得は人の求める利益により、決まるものである。筆者の場合、自分の日常と異なる文化、思考を知るためである。

★解答例

【上の要約に肉付けをしたもの】
外国語を学ぶ際にその学習を通して到達すべきネイティブの文化を表す「目標文化」という言葉があるが、その目標文化という言葉に筆者は違和感を覚えた。なぜなら他言語を学ぶ理由はネイティブによる文化の習得という一意的なものであるとは限らず、人によって多様な理由があるからである。そもそも現存する近代国家と無関係なネイティブのいない言語もある。つまり、外国の言語の習得はその人が求める知的関心や就職、最新の知見などの利益により決まるものであり、「目標文化」とは関係がないことがあるのである。筆者の場合、自らが学ぶ言語を血肉化するためでなく、自分の母語の日常、現実と異なる文化、思考を知るためである。


多様 一意の反対語

ネイティブのいない言語・・・作者がこだわっている言語の例を抽象化

近代国家と無関係・・・注に「現代ギリシャ語の祖」とあるから「近代国家と無関係」

「目標文化を持たない言語」という題名に注意

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中高生のための内田樹(さま)その46

2021-04-12 19:46:35 | 中高生のための内田樹(さま)

次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 人間は運がいいときには「先手を取り」、運が悪くなると「後手に回る」というものではない。「後手に回る」人間は必ず後手に回る。それは一つの器質なのである。というのは、まず「問い」があり、次にそれに対して適切な「答え」をするという先後の枠組みでものごとをとらえる習慣そのものが「後手に回る」ことだからである。
 私たちは子どもの頃から「後手に回る」訓練をずっとされ続けている。「教師の出した問いに正解する」という学校教育の基本スキームそのものが実は「後手に回る」ことを制度的に子どもたちに強いているものだからである。教師の出す問いに正解すれば報酬があり、誤答すると処罰されるという形式で状況に処することに慣れ切った子どもたちは、そのようにして「構造的に後手に回る人間」への自己形成する。それは会社に入った後も変わらない。仕事というのは、すべて上司から「課題」や「タスク」を出された後に、それに適切な「回答」をなすという形式でなされ、上司によってその成否を査定されるものだと信じているサラリーマンたちは全員が「後手に回る」人である。
 なぜ日本社会ではこれほど念入りに「後手に回る」訓練を国民に強いるのか? 難しい話ではない。権力者に頤使されることに心理的抵抗を感じない人材を育成するためである。「問いと答え」というスキームにすっぽり収まって生きていると、「問いを出す上位者」と「答えを求められる下位者」の間で非【 A 】的な権力関係が日々再生産されているということに気づかない。でも、そうなのである。

 

問い 空欄【 A 】の中に入るのに適当な語句を選びなさい。

ア 対象  イ 対称  ウ 対照  エ 対症  オ 対償

 

 

答え  イ

ア 対象(目標、相手、オブジェクト)

イ 対称(釣り合う、シンメトリー)

ウ 対照(照らし合わせる、コントラスト)

エ 対症(症状に対処すること)

オ 対償(「対価」に同じ。「対価(他人に財産・労力などを提供した報酬として受け取る財産上の利益)」

 

 

全文はこちら→『後手に回る政治』

 

 

 

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中高生のための内田樹(さま)その45

2021-02-10 20:35:43 | 中高生のための内田樹(さま)

食における創造とは何か。
食文化とは「不可食のものを可食化するための創意工夫」と「みたことのない食材を何とか料理してしまうための創意工夫」によって構築されたものであり、その根本にあるのは「食えるものは何でも食う」という不退転の決意である。
それは人類史の99%が「飢餓ベース」であったことを考えれば当然のことである。
トマトがイタリアに入ってきたのは大航海時代のことである。
メキシコから持ち帰ったのである。最初は食用ではなく、観賞用であった。しかし、きわめて生命力が強く、果実が多いので、これを食用にしようとイタリア人が200年にわたって品種改良の結果、こんにちのトマトとなったのである。
だから、ヨーロッパでトマトが食用として受容されたのは18世紀のことなのである。
ジャガイモがユカタン半島からスペインに渡来したのは16世紀。唐辛子はコロンブスが新大陸から1493年に持ち帰った。
前に北イタリアで「スローフード」運動というものがあった。
マクドナルドの出店に反対して、イタリアの伝統的な食文化を守れという運動であった。
しかし、外来の食物を排除して、伝統的なレシピを守れという場合の「伝統」はどこまで遡るのか。
もし中世まで遡るのだとしたら、この「スローフード」のレシピにはトマトもジャガイモも唐辛子も使用してはならないことになるが、それでよろしいのか。
その場合は、「じゃあ、『伝統』は18世紀までにします」とか「19世紀まで」とか決めることになるが、その恣意的決定の根拠となるのは要するに「現代人が喰って美味いものが『伝統』と認定され、喰って不味いものは『伝統』から排除される」ということである。



問い 本文で最後の一文が省略されているが、次の中から最も適当な一文を選びなさい。


ア 夫子ご自身が伝統伝統と主張するのは勝手だが、中世にはないものだと思っていても無駄ではあるまい。
イ 夫子ご自身が美味しいものだけを食べていくことを拒否してスローフードにこだわるのは実に納得のいくものである。
ウ ファーストフードもやがて伝統料理と言えるのだから夫子諸君も覚悟しておいた方が良いともいえるだろう。
エ 自分ひとりで「うまいまずい」を言い募るのは夫子ご自身のご勝手だが、それを「伝統の味」とか大仰に呼ぶのは止めた方がいい。
オ 夫子諸君は食べるものがない飢餓状態から食の文化を築き上げた先人たちのことを忘れて「伝統」と簡単に言うべきではない







答え エ

直前が根拠なので易しい問題だよ。「現代人が喰って美味いものが『伝統』と認定され、喰って不味いものは『伝統』から排除される」ことを批判的(スローフードを批判的にしていることからわかるね)に捉えた選択肢を選ぶ。
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中高生のための内田樹(さま)その44

2020-12-31 12:02:11 | 中高生のための内田樹(さま)

 社会的共通資本は集団が存続するために絶対に必要なものです。だから、安定的に、継続的に、専門家によって、専門的な知見と技術に基づいて管理維持されなければならない。とにかく急激に変えてはならない。だから、社会的共通資本の管理運営に政治とマーケットは関与してはならない。
 それは別に政治家や市場が下す判断がつねに間違っているからではありません(そんなはずがない)。そうではなくて、政治過程も経済活動も複雑過ぎて、次に何が起きるか予測不能だからです。そういう予測不能なシステムのことを「複雑系」と呼びます。わずかな入力差が劇的な出力差をもたらすからです。「ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすことはありうるか?」というのは予測可能性についての有名なフレーズですが、複雑系ではそういうことが起こる。だからこそ人々は政治や経済に熱中するわけです。
 でも、空気がなくなるとか、海が干上がるとか、森が消滅するとか、ライフラインが止まるとか、学校がなくなるとか、病院がなくなるということがあってはならない。当然ですね。それでは人間が生きてゆけないから。だから、社会的共通資本を複雑系とはリンクさせてはならないということになります。
 政治は「よりよき世界」をめざした活動です。経済は「より豊かな世界」をめざした活動です。たぶん主観的にはそうだと思います。初発の動機は、いずれも向上心や善意や冒険心です。悪くない。ぜんぜん悪くない。でも、歴史が教えるように、めざした目標がどれほど立派でも、複雑系においては、予測もしない結果が出て来る。必ず予測もしなかった結果が出てきてしまう。よりよき世界をめざした政治活動が戦争やテロや民族浄化をもたらしたことも、より豊かな世界をめざした経済活動が恐慌や階層分化や環境破壊をもたらしたことも、ともに歴史上枚挙に暇がありません。
 それでもいい、何か劇的な変化が欲しい。それがないと退屈で死んでしまう・・・というのがたぶん人間の「業」なのでしょう。僕にだって、その気持ちはわかります。だから「止めろ」とは言いません。でも、お願いだから、社会的共通資本にだけはできるだけ手を付けないで欲しい。

(『公共と時間について』より)

※原文の強調部分を変更している箇所がある。

 

問い 傍線部「お願いだから、社会的共通資本にだけはできるだけ手を付けないで欲しい。」のは何故ですか。

 

 

 

 

【解答例】

政治や市場経済がよりよき世界、より豊かな世界を求めて善意や冒険心を持って行動し、集団が存続するために必要なはずの社会的共通資本を変更すると、社会的共通資本は複雑系に組み入れられるために何がおこるかわからず、それが不安定で断絶したものになってしまうから。

 

『公共と時間について』の全文はこちら。

 

※年内、最後の記事が「中高生のための内田樹(さま)」になってよかったよかった。

 

 

 

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