某有名私立大学Wの問題である。さすがに中学生には難しいか。「中高生のための」なのにね。
次の文章を読んで、あとの問いに答えよ。
私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」はいわば「私という物語」の読者である。読者が本を読むように、私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。
それは「犯人がなかなか分からない推理小説」を読んでいる経験に似ている。怪しい人間が何人も登場するが、どれが犯人かさっぱり見当がつかず、プロットはますます錯綜(さくそう)してきて、こんな調子で果たして残された紙数でちゃんと犯人は言い当てられ、不可解な密室トリックのすべては明かされるのか、読者は不安になる。しかし、その不安は本を読む楽しみを(A)ゲンサイするものではない。それは、どれほど容疑者がひしめきあい、どれほど密室トリックが複雑怪奇であっても、「探偵が最後には犯人がみごとに言い当てること」についてだけは、読者は満腔(まんこう)の確信を持って物語を読んでいるからである。
結末がまだ分からないにもかかわらず、私たちは「いかにも結末らしい結末」が物語の最後に私たちを待っているであろうということについては、いささかの不安も感じていない。私たちが物語を楽しむことができるのは、仮想的に想定された「物語を読み終えた私」が未来において、現在の(1)読書の愉悦を担保してくれるからである。もし、終章で探偵が犯人を名指しして、すべての伏線の意味を明らかにすることなしに小説が終わってしまう「かもしれない」と思っていたら、私たちは推理小説が愉しむことはできないだろうし、そもそも、そんな小説を手に取りさえしないだろう。
私たちの人生もそれと同じく、「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されている。けれども、それにもかかわらず私たちが日々のどうということもない些末(さまつ)な出来事をわくわく楽しめるのは、それが「(2)巨大なドラマの伏線」であったことを事後的に知って「なるほど、あれはそういうことであったのか」と腑に落ちている「未来の私」を想定しているからである。私たちの日々の散文的な、繰り返しの多い生活に厚みと奥行きを与えるのは、今生きている生活そのもののリアリティではない。そうではなくて、「私の人生」という物語を読み終えた私である。
ジャック・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」という言い方で説明したことがある。「前未来形」というのは、「明日の三時に私はこの仕事を終えているだろう」というような文型に見られるような、未来のある時点においてすでに完了した動作や状態を指示する時制のことである。
私たちが自分の過去を思い出すとき、私たちはむろん「過去に起きた事実」をありのままに語っていない。私たちが過去の思い出話を語るとき、私たちは聴衆の反応に無関心であることはできないからだ。ある(B)逸話について聴き手の反応がよければ「おお、この種の話は受けがいいな。では、この線で行こう」ということになるし、ある逸話についての反応がかんばしくなければ「おっと、この手の自慢話はかえって人間の価値を下げるな」と軌道修正を行う。私たちが自分の過去として思い出す話は。要するにその話を聞き終わったときに、聴き手が私のことを「どういう人間だと思うようになるか」をめざしてなされるのである。話を聴き終わった未来の時点で、聴き手から獲得されるであろう【 X 】をめざして、私は自分の過去を思い出す。このような人間の記憶のあり方をラカンは「前未来形で語られる記憶」と称したのである。
それと同じことが、私たちが私たち自身の現在を物語として「読む」ときも起きている。私たちは、今自分の身に起きているある出来事(人間関係であれ、恋愛事件であれ、仕事であれ)が「何を意味するのか」ということは、今の時点で言うことはできない。それらの事件が「何を意味するのか」は一〇〇%文脈依存的だからである。
「その事件が原因で私はやがてアメリカに旅立つことを(C)ヨギなくされたのであった」とか「その恋愛事件がやがて私の身に思いもよらぬ悲劇を引き起こそうとは、そのときは誰一人知るよしもなかった」とか「【 Y 】」とかいうナレーションは、物語を最後まで「読んだ私」にしか付けることができない。
私たちはその「ナレーション」をリアルタイムでは聞くことができない。
しかし、それにもかかわらず、私たち自身が恋愛事件のクライマックスや喧嘩(けんか)の修羅場を迎えているときに、その場の登場人物の全体を(D)俯瞰(ふかん)するカメラアイから自分を含む風景を見おろし、そこに「ナレーション」がかかり、BGMが聞こえてくるような「既視感」にとらわれることがある。というか、そのような既視感にとらわれることがなければ、私たちはそもそも自分が「クライマックス」に立ち会っているとか、「修羅場」に向かっているというような文脈的な位置づけをすることさえできないはずである。
(内田樹『街場の現代思想』)
問一 傍線部A・Cを漢字に直せ。
問二 傍線部B「逸話」・D「俯瞰」の意味として最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つずつ選び、記号で答えよ。
B イ 皮肉な言い回しを含んだ批評的な話
ロ おもしろおかしい荒唐無稽(むけい)な空想話
ハ そのものの特色を最もよく現すたとえ話
ニ 世間にあまり知られていない興味深い話
D イ 全体を上から見る
ロ 定期的に一点から見る
ハ さまざまな角度から総合して見る
ニ 中心点を決めて前後を見る
問三 傍線部(1)「読書の愉悦を担保してくれる」の内容として最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。
イ 読書すること自体で学べる内容を娯楽に優先して確保してくれる
ロ 読書することにより必要な情報を効果的に摂取する
ハ 読書することで感じる快感をすべてのものに優先する
ニ 読書すること自体で得られる楽しみを保証してくれる
問四 傍線部(2)「巨大なドラマの伏線」の内容として最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。
イ 人の一生において後に起こる出来事をあらかじめほのめかしておくこと。
ロ 人の一生においてすでに起こった出来事をすべて肯定的にとらえること。
ハ 人の一生においてすでに起こったことと今後起こることを並列すること。
ニ 人の一生において起こることはすべて予想不可能であると達観すること。
問五 空欄【 X 】に入る最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。
イ 先験的な洞察や直感や配慮 ロ 網羅的な管理や指導や経営
ハ 人間的な信頼や尊敬や愛情 ニ 社会的な賞賛や評価や報酬
問六 空欄冒頭【 Y 】に入る最も適当なものを、次のイ~ニの中から一つ選び、記号で答えよ。
イ 私は常に賞賛と喝采とを期待して、一瞬たりとも努力を惜しまない勤勉な役者であ る
ロ いったいどれくらいこの会社に投資したら、その傾いた経営状態を改善させることになるのだろうか
ハ 結婚式が滞りなく進行するために大切なのは、司会者の人選を間違えないことである
ニ 結果的にはそのとき病気になって転地したことが幸いして私は震災を免れたのである
問七 本文が述べている内容と合致するものが次のイ~ニの中に一つある。それはどれか。記号で答えよ。
イ 人生の途上では、将来についての予測をすることは極めて困難である。私たちは、新たな局面を切り開いていこうとしながらも、結局は「文脈依存的」な選択に陥りがちなので、常に自分をはげましてくれる周囲の意見を参照しなければならない。
ロ 私たちは、人生の結末をともすれば悲観的にとらえがちである。しかし、人生は「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されているので、先々のことに思いわずらうよりも、繰り返しの多い生活に日々努力して厚みと奥行きを与える方がよい。
ハ 私たちは、自分の人生を振り返るとき、とるにたりないような小さなできごとや重大なことがらを、自身の意識の中で組み合わせて、独自の「物語」を構成している。そして、現実に人生を生きつつ、同時にその「物語」を味わってもいるのである。
ニ 恋愛や喧嘩の際に、その先、それらがどのような展開を見せるかについては全く予想不可能である。にもかかわらず、私たちの中に「ナレーション」が聞こえてくるとすれば、それらは「既視感」にとらわれた恣意(しい)的なものなので、信じてはいけない。
問一 A 減殺 C 余儀(他の方法のこと)
問二 B ニ D イ
問三 ニ 愉悦・・・楽しみ 現在読書をしているのは後で犯人がわかるという保証があるから。
問四 それ=些末な出来事=巨大なドラマの伏線
未来の私=巨大なドラマ=×今生きている生活そのもののリアリティ
すでに起こった× ロ・ハ
予想不可能×
あらかじめほのめかしておくこと=伏線 ○イ
問五 自慢話は値打ちを下げる 聴き手(社会×) ○ハ
問六 問四・・・伏線 とか(並列 恋愛事件が原因で悲劇
解答 ニ 病気によって転地が原因で震災を免れた
問七 イ 文脈依存・・・将来を予測している ×
ロ 悲観的? 日々努力
ハ ○ 構造化=「物語」を構成
ニ 信じてはいけない×
※「中高生のための内田樹(さま) その31」も参照のこと