国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その30

2018-12-31 14:35:30 | 中高生のための内田樹(さま)
●今年、最後の記事は(私としては)力を込めて掲載し続けた「中高生のための内田樹(さま)」にした。

●中高生以外にも刺激となっている面があるといいなと思っている。

●来年はご著書からも引用して掲載を続けていきたいと考えている。

●ウチのブログは教育目的だよね(念押し)。



 
次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。


 大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
 どうしてそうなるのかというと、大衆の行動基準は「模倣」だからである。
 オルテガが看破したように、「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』)
 彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
 何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
 「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。
 これはある意味では合理的な判断である。
 上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
 少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのはたしかな経験則である。
 だから、大衆社会の人々がほんとうに「みんな」がやっていることを是とし、「みんな」がやらないことを非としているのであれば、(オルテガ先生に逆らうようで申し訳ないけれど)、実は大衆社会というのはかなり住みよい、条理の通った社会なのである。
 では、なぜ大衆社会がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するのである。
 るんちゃんが子供の頃、おもちゃを買って欲しいと言ってきたことがあった。
 「どうして?」と訊くと、「みんな持ってるから」と答えた。
 「みんな、って誰?」と重ねて訊くと、「うーんとね、なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・」
 そのときの「みんな」は一名様だったわけである。
 問題は「みんな」がどれほどの個体数を含むのかが「みんな」違うということなのである。
 ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
 逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
 彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。
 大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。
 無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
 それが大衆社会にかけられた「呪い」である。



問い 最終行 大衆社会にかけられた「呪い」 なのはなぜか。












【解答例】
範囲の狭い「みんな」に基づき行動・判断するという無知で幼稚な「大衆」の方がいろいろな人間がいると学んで範囲を広くとる人々より多いと、無知であるはずの大衆は自分の判断の合理性や確実性を信じて行動するので安全でも快適でもない社会になるから。




・「大衆」の部分と対比になっている人々を説明する
・「呪い」というマイナス表現を本文から探し出す
・いろいろと知っている人の反対語として「無知」を、また、るんちゃんの例から「幼稚」を使用した
・他にも「視野狭窄」などの語句を用いるのも可。



 全文はこちら「みんな」の呪縛より
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マジックのリハビリと日記34

2018-12-30 14:39:20 | マジックのリハビリと日記
●エクレアもおいしい(挨拶)

●某日。超倹約令を発動する。家計を調べた結果「雑費」が多すぎるのである。ここが倹約のポイントとなる。

●雑費の中心にあるのはマジックだ。

●来年は今あるマジックを大切にし、新しいマジックに手を出さないようにするのが「基本」方針。

●『ショー・ドクター』のP45~47の浪費体質が私にはあったのだが、この浪費体質はさけたいところ。

●まずは自分の今持っている道具やDVD、書籍を大切にすることにしようと決意する。

●どうか魅力的なマジックグッズとかが来年はでませんように。

●ひどい希望だな、おい。皆さんは楽しんでくだされぇ。きっと来年も良作がたくさん出るであろうから。

●そんな私ともお付き合いしてくだいませ。再来年には超倹約令からは解放されるつもりなんで。

●某日。マジックのできない自分と付き合う決意をまたしてもする。基本「できない自分」とお付き合いしているんですけどね。

●諸事情でかつ練習不足でできない基本技法が多々あるが、できない自分の範囲でマジックを続けていこうと思ふ。

●mMLの基本的な号ですらできない自分がいるからなぁ。指使いが前よりおかしくなっているし。

●新年からしみったれたことを書きたくないから年末の今のうちに書いてしまおう。

●来年は転倒しない。救急車に乗らない。直に話す人を増やす。

●得意なマジックをカードで10個、コインで3個、サロンで2手順、ステージは1手順、カップ&ボール1手順、テンヨー6個くらいは自信をもってできるようにする。

 意外と多くね。

●某日。とあるオイル&ウォーターにはまる。面白いはこれ。1月4日に会う友達に見せたいわ、これ。

 練習する。基本はわかった。

●某日。オイル&ウォーターの復習。手つきやディスプレイにも気をつかう。

 これ、もう人前で見せられるんじゃねと油断する。

●まだまだ練習するぞ。

●来年もよろしくお願いいたします。







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いろいろとあったようななかったような

2018-12-27 20:16:41 | 日記
●病院へ行く。まぁ、普通に病人。

●金融機関へ行く。疲労する。

●嵐っぽい中、帰宅。

ゆうき師に指摘されたのを機にマンスリーマジックレッスン1号を見直す。初心に帰ると同時に色々気づきがありびっくり。

●あるギミックカードを探すために小さめの段ボールを二つ開ける。なぞの構成のデックはみつかるわ、BFばかりが見つかるわ、2箱目の最後に目的としたカードが見つかった。

 ま、えてしてこんなものであるよ。 

●諸事情でトランプを床にまき散らしたころに夕飯になったので、マンスリーマジックレッスン1号を途中でいったん休止。

●夕食を食べる。妻が作ってくれたポトフはうまい。

●夕食後マンスリーマジックレッスン1号を最後まで見る。スロップシャッフル、4Aのマジック、シンパセティックコインズをがんばろうと思った。

●腰が痛いのでとりあえず横になることにする。

●そんな平凡な(?)一日。




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マジックのリハビリと日記33

2018-12-26 11:41:40 | マジックのリハビリと日記
●月餅ってうまいよな(挨拶)

●で、だ。

●某日。友人と会うのは1月4日になったよ。

●ということは、まだマジックの練習ができるわけだ。

●マンモスコインとイチャモンテwithサプライズモンテDXだけだとちょっと寂しい。
 
 カードマジックの一つは演じたいというのも人情だろう。

●アフェクションE=Z-1(荒井晋一)の「忘れられた予言」でも、やろうかしら。

●1月5日は地区の新年会。見せる機会があるかなぁ。

●某日。親戚様との新年会はいつだかわからなくて困る。

●某日、姪が誕生する。

 おむつケーキを送ることにする。

 半径30キロ圏内におむつケーキを売っているお店がないので、Amazonで買おうと思う。

 便利だな、Amazon。

●某日。ウチの近所の施設で50円でお茶会をやっていると聞く。

●そこでマジックを見せるのも面白しろいかもしれないと施設の方に言われた。

●けれど、初めての人に見せるマジックってなんだ。

 今まではスベンガリデックを見せることが多かった。
 
 おいらの初めて買ったマジックだからと、やはり簡単で効果的な(クライマックスのある)マジックだし、複数の相手にもみせられるとまぁいいことづくめのマジックである。

●だが、長期的に見せるとなると、良すぎるまマジックやもしれないぁと考えてみたりして。

 次回からのハードルが上がるなぁとか。

●シカゴオープナー(レッドホットママ)から行こうかな。これも私の原点ですし。

●皆さんお知恵がありましたら、コメントください。

●マジックを初見で、やや高齢者が多く、週に一回程度マジックを見せるのに最適で初心者(リハビリ中だからな)でもできるカードマジック。

 初回にかぎりません。今後も見せていくのに良いマジックを知りたいです。

●何かいいものありませんかね。


●もっともお医者さまがその場所へ行っていいかを許可貰ってからだけどな。




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中高生のための内田樹(さま) その29

2018-12-24 13:14:50 | 中高生のための内田樹(さま)
●この忙しい年末に内田樹氏にメールをしてしまった。

 こんな私のメールにも真剣に返事をくださった内田氏は非常に誠実な方としか言いようがない。非常に感激と感謝した。

●そこでいただいた言葉で、ここを読んでいる人に関係することと言うと出版された書籍でも教育目的ならコピーフリーと書いてあったことだ。

●これでこの連載も幅ができることになった。

●こんな誠実な内田氏の本を皆さん、どんどん買って、読んで下され。

●で、だ。

●下記は「論理性」についての文章である。

●国語屋をやっていて「論理性」という言葉にいつももやもやっとしたものを感じていた。

 「論理学」の言う「論理」とは違う何かなんだけどなぁ、じゃあなんだと言われてもなぁというじれったい感情を持っていたのである。

●そのあたりのことをすとんと納得できる文章なのだ。

●その「論理性」を大学生に身に着けるべきこととして書かれてある。

 したがって、中高生の方も目標としても良いわけだ。

●卑近な、しかも現世利益的なことで言うと、AO入試や推薦入試に必要なのは下記の内田氏の文章のような力だ。

 私は面接指導でよく「他人事と思って話しなさい」などと指導をしてきたが、これと関係があったのかもしれない。

●では、読んで下され。




 主題「そのもの」についての研究は、研究者本人が「現場にゆく、現物を見る、本人に会う、実際に経験する・・・」というフィールドワークをしないと始まらない。(刺青の研究をしたゼミ生は日本各地の彫師を訪れてインタビューをとってきた。ホームレスの研究をしたゼミ生は二人のホームレスに長期間同行取材を敢行した。花火の研究をしたゼミ生は寝袋かついで日本縦断花火の旅に出かけた・・・うちの子たちは代々フットワークがいい)
 そこで得られた情報は「第一次資料」と呼ばれる。これこそ、その研究者が「研究共同体」に「贈り物」として提供することのできる貴重な学術データである。
 データ収集に限って言えば、駆け出しの学生であっても、着眼点とフットワークさえよければ、斯界の大学者に負けない仕事をすることができる。
 しかし、それだけでは済まない。
 そのあとに、収集された資料を分析し、理論を立てるという「論理的思考」という仕事が要請される。
 学生さんたちはこれが苦手である。
 論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、「いまの自分の考え方」を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。
 「いまの自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然な」経験や思考の様式のことである。
 目の前に「問題」があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「いまの自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
 ペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。
 使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。
 「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ち替える」ことにすぎない。
 しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。
 自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。
 しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの二三枚を剥がすのが精一杯である。
 論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。
 金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ恐れないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
 よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがある。
 「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
 「理屈っぽい人」はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
 「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。)
 そのつどの技術的難問に対して、それにもっともふさわしいアプローチを探し出すことができるためには、身の回りにある、ありとあらゆる「道具」について、「それが潜在的に蔵している、本来の使い方とは違う使い方」につねに配慮していなくてはならない。
 「いまの自分の考え方」は「自前の道具」のことである。
 ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
 「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
 論理性とは、言い換えれば、どんな「檻」にもとどまらない、思考の「自由さ」のことである。
 そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。







●全文はこちらから
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マジックのリハビリと日記32

2018-12-22 14:22:18 | マジックのリハビリと日記
●某日。痛い。

●某日。痛い。

●某日。だから痛いってば。

●某日。病院でサプライズモンテDXをこっそりと、本当にこっそりと練習する。

 楽しいなこれ。

 この日にいらっとしたのが、手術すると言ったお医者様が必要ないと言ったこと。保険とか役所とかにいろいろと確認に行ったり、連絡したりしていたのに。

 覚悟もしていたのに。

 まぁ、しないにこしたことはないんですけどね。

●某日。妻の実家のクリスマス会を欠席するむねを伝える。行きはなんとかなるけど、帰りの交通手段がない。

 こういうときに車社会の田舎は不便。

●某日。寝ながら手品屋さんの「カラーチェンジングバッグ紅白」を練習する。

 地区の新年会で見せるやもしれないしな。

●某日。来週、会う友人とのマジックを妄想する。サプライズモンテDXと、ジャンボコインとマンモスコインのマジックにしようかと妄想。

 マンモスコインはびっくり箱なんであまりよくないんだろうけど、終わった感があるよねえ。

 ま。ジャンボコインで充分なんですけどね。ジャンボコインのマジックを見たいと言われたらマンモスコインまで出したいのは人情ですよね。



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中高生のための内田樹(さま) その28

2018-12-22 13:10:04 | 中高生のための内田樹(さま)





次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 学校教育もまた、(中略)「決して失われてはならない制度」である。それなしでは人間たちが集団的に生き延びてゆくことができない制度である。
 学校教育の行われない社会集団を想像してみればわかる。そこでは幼い成員たちは成熟への道筋を示されることなく、遊興に耽り、怠惰に過ごしても咎められない。子供たちは生きるための基本的な技術も知恵も教わらないままに無能な成人になり、いずれ餓え死にするか、他の攻撃的な部族に襲われて奴隷になるか殺されて終わる。
 学びのシステムを持たない集団は存続することができない。
 だとすれば、学校教育については、「誰でも、一定の手順を覚えさえすれば、教える仕事は果たせる」ように制度設計されていなければならないはずである。例外的に知的であったり、洞察力があったり、共感性が高かったりする人間でなければ、そのような仕事は務まらないというルールを採用していれば、人類はとうに消滅していただろう。
 ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』に描かれた少年たちは、無人島に漂着した後、住むところと食べるものを確保すると、次に学校を作った。幼い子供たちが無人島の生活になじんで、知性の行使を忘れることを年長者たちが恐れたからである。教師となった少年と生徒になった少年たちのこのときの年齢差はわずか5歳である。14歳の少年に9歳の少年に対する圧倒的な知的アドバンテージを認めることはむずかしい。しかし、この「学校」はみごとに教育的に機能した。「教卓のこちら側」と「あちら側」の間には乗り越えがたい知的位階差があるという信憑が成立する限り、そこでは教育が機能する。これがほんらいの「常識」なのである。
 けれども、教師はその「常識」を知っているが、口にすることをはばかる。それを卑劣だとか陰険だとか咎めてはならない。というのは、「教師という仕事は実は誰でもできるのだ」ということは「とりあえず秘密にしておく」ということも含めて教育は制度設計されているからである。「知っているけれど、知らないふりをしている」のである。そういうものなのである。
 私は1950年、戦争が終わって五年目に生まれたが、当時の公立の小中学校の教師たちの中には「今では絶対に採用されない」タイプの教師が少なからず含まれていた。彼らの中にはあまり教科の内容を理解していない教師がいたし、教科書を音読させるだけで授業というものをしない教師がいたし、気分しだいで通りすがりの生徒にビンタを食わせる教師がいた。でも、そのせいで私たちの学力が低かったということはない。私たちはいまどきの子供たちよりもはるかに熱心に授業を聴いていた。むろん学力もはるかに高かった。
 なぜそうであったかと言えば、私たちは「教卓の向こう側にいる人」はそのことだけで、すでに教える資格があるというルールを身体化していたからである。違いはそれだけである。それが教師たちにとっても、親にとっても、生徒たちにとっても「常識」だったからである。
 残念ながら、その後、私たちは大学に進学した後に「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、すこしも人間的に卓越しているわけではない」という事実を意地悪く暴露して、教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、「言うべきではなかったこと」だった。それに気づくほどに私たちは大人ではなかった。

問 傍線部「言うべきではなかったこと」とあるが、なぜ言うべきではなかったのか。












【解答例】
学校教育は社会の存続のために必要であり、そのためには誰でも教師になれる必要があったにも関わらず、教卓の向こう側にいる教師は卓越した特別な能力のある人間が立つべきだと指摘してしまったことで教育制度が回復不可能な状況においやり、社会の存続を困難にしたから。





●全文は「教育の奇跡」より。





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中高生のための内田樹(さま) その27

2018-12-22 12:55:43 | 中高生のための内田樹(さま)
●ふと、思い出したが、私がこのカテゴリー「中高生のための内田樹(さま)」をはじめるときにこう書いていた。

「そこで中高生に読んでほしい部分を抜き出して、内田樹入門、現代思想入門などなどにしていきたいのである。

いわば他人のふんどしで相撲をとるわけだが、その通りだ。

時に設問や解説をつけるかもしれないが、蛇足と思っていただければ幸いである。」



●「時に設問や解説をつける」である。

 「時に」である。忘れていた。

 ちょっと設問がつく記事が多すぎた。

●また、せっかく「中高生のための」と書いてあるんだから、入試を意識するだけでなく、「大人」になるとか、「大学生」になるとかの部分を紹介していくべきではないのか。

●とまあ、初心を思い出したのである。

●これからも設問やら解説をつけていくことがあるやもしれぬが、蛇足と思ってほしい。

●ついでの話だが、以下は私が手品=マジック=奇術を下手にもかかわらず、病人であるにもかかわらず、続けている理由を考えてほしい文章である。





 経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかっ た中途半端な知識人」が必要である。非人情な言い方に聞こえるだろうが、ほんとうだから仕方がない。
 一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。
 私は仏文学者として「裾野」の拡大に失敗した。そして、先人たちが明治初年から営々として築き上げてきた齢百年に及ばない年若い学問の命脈を断ってしまったことについてつよい責任を感じている。今、日本の大学には専門の仏文学者を育てるための教育環境がもう存在しない。個人的興味から海外留学してフランス文学研究の学位を取る人はこれからも出てくるだろうが、それはもう枯死した学統を蘇生させるという集団的責任を果すためではない。
 能楽の場合でも事情は変わらない。一人の玄人を育てるためには、その数十倍、数百倍の「半玄人」が要る。それが絶えたときに、伝統も絶える。
 私が「旦那」と呼ぶのは「裾野」として芸能に関与する人のことである。余暇があれば能楽堂に足を運び、微醺を帯びれば低い声で謡い、折々着物を仕立て、機会があるごとに知り合いにチケットを配り、「能もなかなかよいものでしょう。どうです、謡と仕舞を習ってみちゃあ?」と誘いをかけ、自分の素人会の舞台が近づくと、「『お幕』と言った瞬間に最初の詞章を忘れた夢」を見ては冷や汗をかくような人間のことである。
 私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間が一定数存在しなければならないと思う。技芸の伝承は集団の営為だからである。全員が玄人である必要はないし、全員が名人である必要もない。玄人の芸を見て「たいしたものだ」と感服し、おのれの素人芸の不出来に恥じ入り、それゆえ熟達し洗練された技芸への欲望に灼かれる人々もまた能楽の繁昌と伝統の継承のためになくてはならぬ存在なのである。
 私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。
 それができるのが「大人」である。
 私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。私はそう思っている。同意してくれる人はまだ少ないが、そう思っている。



●要は私は「『大人』になる仕方」としてマジックの「旦那」を目指しているのである。底辺がひろがるほど、上質の玄人が誕生し、その玄人たちが食べていけるためにも、下手でも病人でもマジックを続けていくのである。

●そのあたり、無料で簡単にマジックを習得できるコンテンツには疑問を持っている。本でもDVDでもマジックグッズでもその購入が玄人を食わせていくならそれはそれでいいことだし、まして「苦労」のあげくマジックを理解する楽しみや、実演する楽しみがあるのだから、上質の趣味である。

 上質の趣味であると各自、自分の趣味について思っているだろうし、そうでなくてはいけない。

 むろん、他の趣味も「『大人』になる仕方」を教えてくれるだろう。

●以前生徒に言っていたのが「生徒の経験を作る3要素」である(また、「3」にこだわっているね)。

 それは「学校・地域・趣味」である。
 
 部活・学級活動、友人を含めた学生生活では、スマホ(現実の一部だけしか付き合えないからね)に頼らず現実100%で向き合ったり、身近な大人である先生と交流したりするといいね。おそらく一番具体的な経験となるであろう。

 祭り、ボランティア、散歩などを総合した地域と関連した経験(意外なほどない生徒さんが多いのよね)を通して地元の意外な価値を実感していくことも大事だ。私の場合、以前は散歩を趣味にしていたが、由緒ありそうな神社の跡地やら立派な意匠をこらした蔵やらその地域の歴史的暗部をあらわす何か(ここには書けないよ)とか、いろいろと見つけたもんだ。

 地域もそうだが、年齢に関係なく存在する「趣味」も良い。学校は学年やら部活やらの縛りが多すぎる。
 私はどれほど年上の著作に感動し、年下の存在に刺激を受けたことか。今でも野島信幸氏(彼が中学生時代から知っているような気がする)には多くの影響を受けているしな。はっ、師であるゆうきとも氏も年下ではないか。それに一流ないし、玄人の存在が色々なことを教えてくれるだろう。

 これらが生徒の良質の経験つながるのである。自己推薦に書くことがないという3年生は多いがこの3要素を充実させなかったか、気づいていないだけのことだ。

 また、この3要素は小論文でも身近な具体例としてつかえることもあるから大切にしよう。

●とりあえず、君たちに「趣味」はあるだろうか。ある人はおめでとうである。よい「旦那」になるといい。

 むろん、「玄人」になっても全然かまわないんだけどな。




●また、余計な解説もどきをつけてしまった。


●原文はこちら「旦那芸について」について」より。



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中高生のための内田樹(さま) その26

2018-12-20 14:27:50 | 中高生のための内田樹(さま)



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 アスリートのパフォーマンスを数値でしか語れないというのは、現代日本を覆い尽くしている「幼児化」の端的な徴候である。
 スポーツメディアが書くのは「数字」と「どろどろ人間模様」だけである。
 アスリートについて書かれていることは、記録や順位や回数について、ローカルな人間関係についてか、ほとんどそのどちらかである。
 ベースボールプレイヤーについて書くときに、打率や打点や本塁打数や出塁率やにしか言及できないというのは、喩えて言えば、バレーダンサーのパフォーマンスについて論じるときに、ピルエットの回数とかジュテの高さとかリフトしたバレリーナの体重だけを書き、「舞踊そのもの」については何も書かないようなものである。
 野球もまた身体的パフォーマンスであり、それが与える喜びはダンスを見る場合と変わらない。
 それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
 長嶋茂雄という選手はもう記録においてはほとんどすべてを塗り替えられてしまったけれど、彼がプレイするときに観客に与えた快感に匹敵するものを提供しえたプレイヤーはその後も存在しない。
 長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに全身全霊をあげて打ち込んだプレイヤーである。
 長嶋のプレイを見ているときに、私たちは彼の身体に想像的に嵌入することを通じて「野球そのもの」に触れることができた。
 その意味で長嶋は一種の「巫者」であったと思う。
 長嶋がそうであったように、卓越したパフォーマーに私たちが敬意を払うのは、その高度な能力を鑑賞することを娯楽として享受できるからではない。
 そうではなくて、私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである。




問い 傍線部「幼児化」とはどういうことか。











【解答例】
本来は、卓越したアスリートがくれる、日常的な感覚では私たちが到達できない「スポーツそのもの」に共感し、驚嘆し、想像しなくてはいけないのに、日常的な感覚でわかる数字やどろどろ人間模様にしか興味を持てないということ。



【ポイント】
「幼児化」と対比になっている部分を読み取ることが重要。

それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである


具体例の長嶋茂雄の「野球そのもの」を「スポーツそのもの」に抽象化した

あとは「幼児化」の内容として「数字」と「どろどろ人間模様」の部分を活用した。そして「幼児」は「本来」ができていないということと「日常」にしか興味が持てないことで表現した。

なお、「A逆説B」で対比・二重性を表現している。


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みんな、元気ですか

2018-12-15 13:50:19 | 日記
●私は一昨日、外出先で転倒して救急車で運ばれましたよ。

●救急車って意外と揺れるんだね。

●転倒した次の日の方が痛くて痛くて。背中もより痛くなったし。

●今は小康状態。日記の更新ができる程度に。だけど、治りかけが肝心だからな、気を付けないと。

●今日は住んでいる地区の忘年会なのに欠席だな。

手品屋オリジナルバージョン★カラーチェンジングバッグ紅白


●上を自己紹介がてら(趣味は手品です的に)演じるつもりだったのに(ちなみに自己紹介が終わったらすぐ帰る予定だった)。

 地区の人で私を知らない人もいただろうに。

●ましてや複数人相手の手品を見せる機会も久しぶりだったのに。

●まぁ、いつか複数人相手に手品を見せられる日もくるだろう。

●しかし、上の動画のマジック、いいよね。まさに宴会用だよね。

●ま、宴会用のマジックと言えば「宴会de手品」がイチオシですけどね。

●ここのところ、友人一人にしか手品を見せてないから、手品のリハビリが進まなくて。

●一人いるだけでもありがたいんですけどね。


●で、だ。

●皆様も転倒には気を付けてね、ということで。




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