かなりの悲しみを感じている。私にとって多くのことを教えてくれた
「小論文の道具箱」が閉鎖されたのである。
まず、当然だが、私に多くの「小論文」についての姿勢を教えてくれた。学生が単なる知識や技術を欲しがる昨今において、柔軟性や誠実さを中心とした小論文を教えるというのは、どれほど、大切なことだっただろうか。「小論文の道具箱」には次のような一節がある。
>>どのような出題がなされるにせよ、志望領域に対する関心の高さは多くの場合、答案作りに役立つものだ。知らなきゃ落ちる、というわけじゃないけど、関心をもって臨むことは当然あっていいし、そのほうが楽に考えられる問題は、すんごく多いってことだ。具体的な学習方針も、そのあたりを中心に計画したほうが考えやすい。そして自分の関心を鍛え上げておくことは、受験を超えて君の知的な生活に確実に資するものとなるはずだ。そうした関心の鍛え上げを君たちに薦めるような問題が出てるのに受験でしか通用しないようなマニュアルとか「テクニック」とかを暗記して、十代最後の日々を送ってて平気なの?って気になっちゃうのは余計なお世話かなぁ。
もうこのような「お世話」をしてくれるサイトもない。
次に、文体の楽しさを実感できるサイトでもあった。解答例と解説の文体の差を読者は楽しむことができたはずだ。文体と内容ってすごく大事なもんだったんだなと思えるはずだ。受験生時代にこのような楽しみを味わっていれば、もう少し、まともな文章をおいらでも書けただろうに、とも思う。
もう、そのような「楽しみ」を教えてくれるサイトもない。
そして、何よりも、インターネットの無償性を教えてくれた。慶応のSFCが出した本にも書かれていたが、ネット社会とは「所有から共有へ」という流れを持っている。「共有」のために必要なのはボランティア精神であり、無償性であろう。しかし、「無料サービスしてアッタリ前ぢゃんみたいなメイル」が運営者のもとに来るということは、ここらで無償性について考えなくてはいけない時期なのだろうか。んー、無償性が理解できる文化資本を持っている人間を客観的に証明ってできないのかな。
いずれにせよ、利用者(私も良質な利用者ではなかったとつくづく反省している)の文化資本に応じた対応をとるべきで、「小論文の道具箱」の閉鎖に異論はない。
異論はないが、ただ悲しいだけだ。
本当に悲しい。