国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

奇術非実力派宣言~初心者になる~

2024-05-02 21:00:01 | 奇術非実力派宣言

奇術=マジック=手品である。最近では知らない方も多いとのこと。注釈である。

「奇術」にも注釈は必要だわ、「非実力派宣言」も森高千里氏の造語との注釈が必要だわ、困難を感じるな。いや、実際、困難なんですけど。

あ。表題以外はマジックの方が良いのかしらん。

まあ、表題以外はマジックで行くとするかあ。

ただ、マジックより「奇術」のほうが語感が重いのと、奇術の方が「術」使い感があって面白いこと。

以上の理由でタイトルは非奇術派宣言で行くが、文中は原則として親しみやすいマジックで行くことにする。

 

さて、非実力派は実力派を知っている。とにかくマジックは難しいものだということを知っている。

中学生時代に古本屋で二川滋夫氏の『コイン奇術入門』を購入(今は手元にない)し、たまたま開いた(初めの部分から読まないあたり非実力派の素質があった)「コップに飛び込むコイン」の難易度の高さに怯えてしまった。「入門」でこれかあと思ったのである。

同古本屋で気賀康夫氏の『百万人のトランプ手品』(これはいまだに持っている)では「左手に茶わん、右手におはし」の話だけが記憶に残り、「スイスの数え方」を演じたかもしれない程度である。

もっと、あとになって、マジックを趣味とするようになって購入した『新版 ラリー・ジェニングスのカードマジック入門』では「失敗は成功のもと」くらいしかまともに読んでいない可能性がある。

いわゆる宝の持ち腐れ製造機というやつだが、そこが非実力派の非実力である所以である。

そんな非実力派がなぜ、マジックを趣味としているのか。それは成功体験があるからである。

運が、いや、運命が導くとでも言おうか。

私の場合はスベンガリーデックがすべてを決めたと言っていい。

説明書をまともに読んだか記憶にない(悪癖)が、演じまくったものである。

あるときはマジシャンとして、あるときは呪術師、あるときは、占い師として演出可能なこの作品を楽しんだものだ。

そこで演出の仕方だけではなく、図々しさを覚えていったであろう。

この図々しさこそが「非実力派」でありながらも、人に手品を見せる基盤を作るのである。

敬愛する先輩に見せたところ「野暮なのは承知だが、タネを教えてくれ、どうしても気になっていたのだ」と言われたので、教えてしまったが、その先輩からMrマリック氏の見せ方を教わることになる。

それを知り、ますます、この道具の威力を思い知らされたものだ。

いまだにスベンガリーデックは私の十八番(おはこ)である。

マジックは難しい。それを知ったうえで、一つ、自信を持って演じられるマジックを手に入れること。

非実力派はそこから始まる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇術非実力派宣言~奇術非実力派とは~

2024-04-29 10:32:10 | 奇術非実力派宣言

 内田樹氏のエッセイで『旦那芸について』に以下のような記述がある。

一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。

 ここで重要なのは、「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」こそが「まともな玄人」の基盤となるということである。私はその「人々」こそを非実力派と呼びたい。

 「まともな演者」「まともな指導者」「まともなショップ」「まともなマジックバー」「まともなクリエイター」などなど・・・。これらを支えるのは、「半玄人」つまりは非実力派なのである。

 かくて、非実力派は誇りを持って良い。よき奇術業界を作っているのは我々なのだ。

 下手の横好き大いに結構。うまく見せられるかはおいておくが、我々は少しでもよい演技をしようと努力をしたり、収集をやみくもにしたり、整理したり、うまい演技を鑑賞したりすることを通して、「その知識や技芸」が習得に困難なものであることに気づくという「まともな玄人」を支える価値ある人々なのだから。

 具体的に言うなら、「私のマジックをみてくれないか」という一言は「まともなマジッククリエイター」「まともなマジックショップ」「マジック指導者」らを支え、「一緒にマジックを観にいかないか」という一言は「まともなマジシャン」「まともなマジックバー」を支えることになるだろう。

 「まともな玄人」になれなくても、気にすることなかれ。我ら非実力派は一握りの「まともな玄人」の礎である。非実力派は重要な存在なのだ。

 その地位を楽しもうではないか。敬意をもってマジックと触れていこう。

 そして、「まともな玄人」たちよ、我らをさげすむことなかれ。汝らの地位は我らが保証するのである。

 

 ※『非実力派宣言』は森高千里氏のおそらく造語。彼女の活躍ぶりからして、「非」実力派というのはふさわしくはないので、本書は顰(ひそみ)に倣う形となる。マジックでも手品でなく奇術を使用したのはサブタイトルに当たって、その語で最も適当なサブタイトルが出現したため。サブタイトル「魔術よりも驚愕を 非実力派が魔法に挑む」は講談社のAI編集者相川氏がつけた。ここに謝辞を記すものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする