😲手にしているのはおそらく「マジックトランプ」
— ゆうきとも (@tomoyukimagic) May 27, 2021
そして演じているのは(あの解説書を書かれた)加藤英夫さんではありませんか! https://t.co/Y6qGficBPH
某大でのAO入試の提出論文。私にとって初めてのAO入試指導だった。今は昔のことなんだが、今回、古いUSBメモリが見つかり、発掘した。大学のアドミッションポリシーや私が作成した大学の資料を研究したり、リベラルアーツを講義したりしての作成だった。決して美文ではないが、生徒の限界の論文だった。志望理由と対になっているんだが、志望理由は発見できず。この文章の思い出は、提出前日に生徒が高校の国語の先生に見せて完全に否定された論文だったことである。ここはいらない、ここもいらないと削除されまくったらしい。生徒の保護者が前日に慌てて電話してきたが、「その先生は大学研究などをしていましたか」と聞いたところ、していないという。「高校の先生の言うことは無視して提出してください」と答えてしまった。今、考えると怖いねえ。けど、無事に合格した。これ以降のAO指導のパターンを作ってくれた思い出の論文である。
【課題文省略】解答例から推測してくだされ。
【課題小論文解答例】
立花隆氏は「知的亡国論」において、半世紀近くに渡って文科系の知識と理科系の知識に乖離が問題となっていることを指摘し、さらに日本では、受験生確保のために科目数を減らすこととスペシャリストを重視することのせいで、その問題が加速しているとし、社会の現場ではゼネラリストが大切であり、リベラルアーツの必要性を説いている。
私も基本的にリベラルアーツが大事であるという彼の論に反対ではない。しかし、立花氏の意見は「実利から離れて真理のために真理を追求する自由人のリベラルアーツの立場」(P180)が中心ではなく、実利的な意味でのリベラルアーツを主張できるように受け取れた。例えば「ハイレベルのゼネラリストを育てるのに一番いいのは、ハイレベルのリベラルアーツ教育です」(P183)という文があるが、ここでのハイレベルのゼネラリストとは「執行部門の上層部のエグゼクティブたち」(P182)なのである。
私はリベラルアーツを、そのように生きていく上での、部分的なものとしたくない。リベラルアーツとは直訳すれば「自由学芸」であり、自由学芸とは生きやすい生の全体を歩むための学問と技術(arts)なのだ。人はエグゼクティブでない場面でも生きている。母として、妻として、市民としてである。そういう総合的な人生に必要なものをリベラルアーツと言うべきである。
私にとっての理想の高等教育は、人生で総合的に役立つものであり、主に三つの中心を考えている。まず、コミュニケーションの力である。これは人が社会的に生きるために必要なものである。内容としては日常レベルの共通の基盤となる常識や大学人としての常識である名著(グレートブックス)を理解すること、外国語の能力を上げること、ディスカッションやディベートなどを行うことがあげられる。
次に自己を作り上げることである。アイデンティティの確立に必要なものを学び、修得することである。哲学、倫理や宗教の理解、そして自国を含めた多様な文化の理解などである。
最後に社会での判断力である。これはメディアリテラシー(メディア受容力、メディア使用力、メディア表現力)やサイエンスリテラシーである。サイエンスリテラシーがなくては、健康食品から発電所のあり方まで判断ができないことになるだろう。
なお、これは便宜上、三つにわけたが、実際に三つが独立したものではない。メディアリテラシーとコミュニケーションは密接な関係を持っているし、グレートブックスはアイデンティティの確立にも必要なものである。また、これらの三つの全てができることは難しいだろうが、その素地が作れることが肝要である。
したがって、これらを総合的に学ぶということが大事であるが、それはどのように達成されるべきか。まず、高校生の判断だけでは自分が本当に学びたいこと、あるいは、学ぶべきことが分からないので、いきなり、専門的な分野をやらないことである。そして、学生が望むならば、専門を一つやるだけでなく、複数やることで総合的な視線を残すことである。
また、教室は講師が一人一人を把握できる小人数が望ましいだろう。そして、疑問点や発展するための方法をいつでも聞きにいけるような自由な学風こそがリベラルアーツの修得のために必要である。
最後に、リベラルアーツを実現するための受験制度としては、基本的な学力の有無は当然確認しなくてはいけない。グレートブックスの読破や外国語の修得には必要だからである。しかし、一番、大事なのは学生の個性を見極められる入試制度が望ましい。それは面接、小論文、プレゼンテーションなどによって、ある程度の確認ができるであろう。
ここまで書いてきて、私は気付いたことがある。理想の高等教育に近い場所がすでにあったのだ。
専攻は2年生からで、副専攻も可能な大学である。私は今回の課題を通して本当に××女子大学を志望して良かったと思っている。
●一部の方から厚いと売れないので、本を置いていったということを書いたところ、それらの本を知りたいという方がいらしたので、恥ずかしながらここで公開。原則として本棚一列近く(かそれ以上)を制圧している本を記す。
●新書版の類いは抜かしてあるが文庫版は残しているものもある。
●いずれにせよ、売りに出す暇がない。兄が一度、本棚を古本屋に見せてめぼしいもの(本居宣長、上田秋成、橘守部、柳田國男らの全集)を持っていったので、あとは古本屋がめんどくさくてか、なぜかしら置いていかれたものを以下に。なお、原則として小説は飛ばしている。
●いきなり、原則の例外であるが、筒井康隆。この方で読書の楽しみを知った。最初に多読した作家。『やつあたり文化論』というエッセイ本から入ったのが良かったか。読書=感想文の課題であった自分の蒙を啓いてくれた方。
●小室直樹。新書版を含めると最初に多読した学者。大学一年の夏休みの頃か。新書版を含めると一日一冊ペース。夏休み中に彼を多読したことを会計学、近代経済学の先生から褒められた記憶がある。社会科学の基本を知った。
●小室直樹氏の関連として橋爪大二郎。自分にとって難しい本に初めて手を出した本である。たしか『民主主義は最高の政治制度である』という本(題名は違うかもしれん)は『銀河英雄伝説』とともに私の民主主義びいきを確定させた。ちなみにこれは易しい良著。社会学という学問を知るきっかけの人。かなり偏っていますね。大沢真幸の本が隣に少々並ぶ。
●栗本慎一郎。人類学という言葉を意識させてくれた方。また、いわゆる現代思想にも触れさせてくれた方。かなり偏っているが、多読した。大学二年の頃か。本棚の同じ列に吉本隆明、柄谷行人、蓮實重彦などあり。いわゆる現代思想にかぶれていたなあ。今じゃ読めんよ。いや、当時ですら読めていたことやら。また、人類学としてエドマンド・リーチの著作が複数あり。「粛慎の沈黙交易とアマテラスとスサノオの誓約 」の構造主義的発想を企んだ(企んだだけで論文にしなかった)のはこの頃か。
●今村仁司。社会科学と現代思想の中間に位置していたか。難関模試に使用したことあり。まあ、あんなわけのわからない文章に昔の中学生は立ち向かっていたんやなあ。
●野口武彦。江戸思想全体の見取り図を与えてくれた。この方がいらっしゃらなかったら、江戸思想史に挑戦できたかどうか。
●鎌田東二、荒俣 宏。神秘学、日本思想史を意識する。鎌田東二氏には直接会い、薫陶を受ける。現在は縁がなくなってしまったが。
●小松和彦、赤坂憲男。民俗学などを学ぶ。おおざっぱすぎるけど。両者から「異人」論を学んだのは影響大。ゼミ論を「江戸時代の富の分配による憑きもの筋の発生」にしたのはこれの影響か。モデルを作って説明したのに先輩方に経済学とみなされなかった記憶がある。教授は厚生経済学の一種として一定の評価をくれた。
●その他、フリーライターごっこをしていた頃の資料多数。
●なかなかの品揃えだと思うんだがなあ。古本屋のけち。
●葬儀を済ます。腰痛がひどく、父の顔をぬぐうのは妻にしてもらったが、花を入れることができた。
●棺には父が病室まで持ち込んでいた楽譜と食べかけのキャラメルなどを入れる。
音大卒の父らしい。また、キャラメルは父が最近欲しがっていたものらしい。昔、好きだったものを欲しがったのだろうか。そうそう、他には父の教えていた高校の記念品なども納棺。
●兄から話を聞くと、亡くなる前に病院へ行くときに、非常に寒がり、震えていたらしい。タクシーを待っている間、「お日様は温かいなあ」と言っていたとか。
死の直前に太陽に感謝できたのはいいことだと思う。
●こういう時は忙しくした方が良いと思い、高校から大学時代にかけて収集した品を段ボール箱に詰める。7箱にはなったか。
●兄に仕事が入り、しばらくは送れないとのこと。兄が忙しい中、こちらのわがままなので、いつか送ってくれるだけで十分。
●書籍は入れず。めぼしいものは既に売ってしまったし、最近は厚い本は人気がないそうで。かといって、ウチに収納するスペースはない。コレクション品を収納するスペースすら、あるかどうか。まあ、販売するだけのコレクション品なのでいつかスペースは空くが。
●結局、野口武彦氏による校注の『宣長選集』だけを持ち帰ることにする。青春の思い出である。
●ちなみにめぼしいものは本居宣長全集、上田秋成全集、橘守部全集、柳田國男全集など。一番、高く売れたのは文庫版の柳田國男全集だったそうで。
●母が倒れた時は取り乱しており、仕事中のRちゃんが病院まで付き添ってくれたのだが、今回も私が大丈夫かを心配してくれ、LINEをくれる。ありがたい。
●ただ、今回は父に昨年、会えた(Go To活用)ことと体調があまりよろしくないことを予め知っていたせいか、ショックは母の時ほどではなかった。
まあ、これからどう転ぶかは不明だが。
●手品ではテンヨーのカップ&ボールが見つかったくらいで、特に成果はなし。色は褪せていたが、母の手作りのニットボールも中に入っていた。
●昨日、兄と昼食後、父の遺骨に手を合わせ帰宅。
コロナのこともあって、これから2週間は事実上の隔離生活。薬は病院から郵送される予定。
●マジックトランプという名前を見たときに私の知人は「妙だぞ。これは日本人が作ったものだね」と語っていた。
●というのもトランプとは本来、「切り札」の意味だそうで。
●小学生のころの教科書だったか、面白いなと思った話として、カードに当たるものを各国語で何というかということと、そのころの日本への文化的影響を述べたものであった。「文化的影響」という難しいことばを使わずに説明していたあたり、秀逸な文章だと思うのだが、題名は忘れた。
カード・・・英語
カルタ・・・ポルトガル語(歌留多の当て字ができるほどの戦国時代あたりからの遊戯系カード)
カルテ・・・ドイツ語(医学用語)
カルト・・・フランス語(料理用語。アラカルト)
●何故にこういう話をしているかというと、先日の「マジックトランプの紹介〜その14~(ディズニー編)」でディズニー系マジックトランプを紹介したが、ディズニーリゾートではいわゆる(※)マジック「トランプ」はマジック「カード」として販売していると気づいたのである。
●さすがディズニーリゾート様である。おそらく次の理由なのではないだろうか。
・日本という日常の空間と違うことを明確にするため。
・「MAGIC CARDS」の表記を入れるこ
とで外国の方のお土産にできるため。
●上記、二つの理由ではないかと、勝手に思っているっす。
※ ちなみに、昨日の記事「『マジックトランプ』での愚痴」で「さては故意犯(いわゆる確信犯のこと)だな。」の「いわゆる確信犯のこと」の部分に国語屋であることが現れていますねと弟子からメールが着ました。
さらにちなみにいっておくと「さては確信犯だな」という部分は『映像研には手を出すな』の台詞より拝借しました。
● マジック道具についての私による愚痴は珍しいと思う。読み飛ばすもよし、推理するもよし。ちなみにはずれを買った場合、私は無視するというのが基本姿勢である。
今回は例外な。
●マジックをされない方(ウチのブログにはいらっしゃる)はマジックマニアがどのような視点で不愉快になるかを知る例になると思う。
●まず、前提から。
1. テンヨー、DPグループ、トリックス、日本奇術連盟、日本パール加工などが「マジックトランプ」を名乗っている。マジックトランプは慣例としてテーパー加工(抜き出す機能)+マーク(表がわかる機能)の2つの要素を持っている。
2.「オリジナル」を名乗るのは覚悟がいる。
●この二つを守っていない「マジックトランプ」を購入してしもた。
●1については「オリジナル」のマジックトランプ(マークのつけ方とか工夫してオリジナルにする要素はあるけどね)はありえないということに気づかなかった、そして、動画をきちんと見なかった私に対する罰であると言えよう。それでも名前を「マジックトランプ」にしたことを恨めしく思う気持ちはあるけれど。
●2については、ちょっと不愉快。P氏(T氏)が有名にしたデックに一枚カードを足しただけ。M氏が考案し、N氏が多くの種類の作品を作ったデックに封筒をつけたのと、退化させたただけ。紹介した作品はまるでN氏の創作物の隙間を縫う形で作られている。3作品なんかは別のトリックデック(メジャーなやつな)でできたり、古典だったり。さては故意犯(いわゆる確信犯のこと)だな。
●もし、この「マジックトランプ」を扱う店があったら、そこを二度と利用しないと思わせる程度には不愉快だった。
●このオリジナル「マジックトランプ」と称するものの作者が不幸なのは。マジックトランプの収集家にして、N氏作品愛好家の私が入手してしまったことである。
このマジシャンに対して偏見を持ってしまったぞ。
●はじめは「××のマジックトランプ」というタイトルで書こうとしたが、大人げない(ここまでで十分、大人げないが)ので、このオリジナルマジックトランプの作者をイニシャルにすらしないで書いた。
●何かの時は削除するやも(弱気)。
ゆうきともオンデマンド
— ゆうきとも (@tomoyukimagic) May 12, 2021
『その他』にライブレクチャー①をアップしました。
ちょっと珍しいスタイルのレクチャーになったのではないかと思います。😃
●そうか「珍しいスタイルのレクチュアー」なのか。橋本さんのアイデアの変遷がわかるあたりかな。
●で、だ。
オンラインとは言え、マジックのレクチュアーは初めての経験かな。いや、手品屋のがあったかな。
●とはいえ、手品屋さんのはステージ、サロン的なものだったので、クロースアップのレクチュアーは非常に新鮮でためになった。
パソコンの前でマットを広げて、カードをいじるのをライブ配信に合わせては初めてやった(このパソコンの前で、マットを広げて云々自体はしばしばゆうきともオンラインでやっている)。
非常に楽しい経験である。なんとなく孤独感がないというか、他の人も同じ時間にカードをいじっていると思うと楽しい。
●ゆうきともオンラインの良いところは、刺激を得たのちに復習ができるところ。
●まず、ライブレクチュアーを受ける。今回は「ナインかクインか その後で」に特に関心を持つ。
●次にマスターしたいマジックである「ナインかクインか その後で」のために基礎講座8回基礎講座 (後半)(パケットでのマルチプルリフト)の「ナインかクインか」をトランプ片手ぢゃない両手に視聴する。
●そして、ライブレクチュアーのアーカイブを見て、「その後で」を復習。
●最後に妻に見せて驚いてもらう。
●いや、最後ちゃう。今後は多くの人に見てもらうんや。