旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

宮之浦里めぐり

2017-03-31 07:15:28 | 国内

白谷雲水峡から降り、宮之浦の語り部さんお二人と、「益救(やく)神社」前でお会いする。※「やくしま」の語源についてはまた別の機会に

二つのグループに分かれて歩き始めた。同じ場所を解説しても、人によってその視点は違う。「このガジュマロ、だんだん動いているんですよ」へぇえ、長く住んでいる人だから実感できるのだろう。ガジュマロは『歩く木』とも言われるのだそうです。

「屋久島ではどこを掘っても、ほぼ水が出てきます。だから井戸をつくるのは簡単ですが、一度つくった井戸を閉じるのはなかなかたいへんなんです」そういわれて認識した井戸の跡

「亀石」と呼ばれる、花崗岩が川で浸食されて出来る石がある。それを集めて玄関先にかざっている家を解説していたら…↓

「入っていきんさい」と、古い民家に招じてくださった。おばあさんと二人暮らしのヤク犬くん、大喜びではねまわる たくさんのお雛様が並んでいるのがこの家の歴史を感じさせる⇒ 

そして、床の間の立派な屋久杉のパネルにびっくり!↓これだけ大きな美しい木目一枚板は、どんな屋久杉からつくられたのだろう?↓

障子にも、こんな豪華な板↓

「息子はもうこの家は壊すんだって言うんですよ」 欄間も素晴らしいけれど、天井はだいぶん傷んでいる。どんなにすごい木材を使った旧家でも、それを維持し続けるのは簡単ではないのだろう↓誰もが苦渋する

 江戸時代からの道にも、解説されてはじめて気がつく。高台へあがっていくと、村の墓地に出た。鹿児島は全国で一番仏花にお金をかける県なのだそうだ。たしかにどの墓にもお花があがっている。一日に何度も行く人も多くて、近所の交流場になるのだそうだ。今回お世話になったバスガイドさんも、子供のころに母親から「おばあちゃん呼んできて」と、お墓で長話しているだろう祖母を呼びに行かされたと話ていた 墓はずうっとこのかたちだったわけではなく、現代になってから古い墓を整備している。その時に行き場のなくなってしまった墓石が一角に集められていた。こういう墓石はもっとたくさんあったのだそうで、当時、海にもっていって漁礁としてつかわれたとか↓

一時間ほど歩いたところで、ちょっと休憩。「寒かったでしょう、お茶とお菓子ありますよ」と公民館へ↓

そして、ああ、なんてグッドタイミング!紫イモのでんぷん菓子は、小松が12月下見の時にぐうぜん通りかかったもうひとりの語り部さんにもらったものだった。あの美味しさが忘れられなくて…⇒こちらからその時の日記ごらんいただけます

この味を、今回のみなさんに味わっていただけることになって、ほんとにうれしい↓

↑左の葉っぱが気になった。ヨモギもちのように使っているのだが、葉脈が独特。しらべてみると、この葉っぱが「かからん」の葉なので、この呼び名になっているという↓

では、「かからん」とはどんな植物か?ちょっと検索してみると、サルトリイバラという東アジア全域で見られるものだという。別名「山帰来(さんきらい)」の由来は、「梅毒になって山へ追われた男が、この葉を食べて治って村へ帰って来たから」という説が見つかった。つまり、消毒効果が昔から周知されていたので、餅をくるむ葉として使われるようになったのだろう。小松はそう理解いたしました。

それにしても、こういうおもてなしでこの里の・ひいては屋久島の印象自体がくっきり「おいしく」刻まれる。今日は寒かったし、お昼ご飯をとくに決めていなかったから値千金でした(^.^) もたせていただいた「ふくれ菓子」は、あとでいただきます↓

さぁ、もう少し里めぐりをしよう バナナの花はやっぱり南国のイメージ⇒

三叉路にあるこの石も沖縄周辺独特のもの 

昭和五年にかけられた橋のたもとに、巨大なあこう(?)の切り株があった↓語り部さんが小さいころにこの木はなんと植木鉢にあったのだとか。何十年を経て巨大になりすぎて、ついに伐採された↓

午後三時すぎ、港へ向かう。今日はこれから高速船トッピー号で指宿へ向かう。屋久島二泊だけのコースの方お二人はこの後空港へ 船内でさっきいただいた「ふくれ菓子」をいただきます

種子島を経由して、少し夕暮れてきたころ、開聞岳が美しく見えてきた↓

コメント
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