旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

瀬戸内因島下見~白滝山

2021-03-02 23:08:03 | 国内
江戸時代後期、この山頂に石像で極楽を出現させようとした柏原伝六がいた。

五百羅漢、いやそれ以上。七百体近い石像群がひろがっている。



釈迦三尊像をのせた基壇は、インカの石垣を思わせる複雑な石組みにおどろかされる。
地震の多い日本で、二百年も崩れない基壇を残せている技術。

江戸後期の1827年(文政十年)、柏原伝六は自らを観音の生まれ変わりと悟るに至り、彼を信仰する者たちと共に白滝山に集まった。

信徒は兵庫や鳥取にまで広がり、一万人を超えたとされてる。
※柏原林造氏の労作「ふるさとアルバム重井」の記述より 以下も同様
↑上の写真で釈迦三尊像よりも高い位置に後姿に坐しているのが伝六本人↓となりは妻

左の空いた場所には後継者の息子が坐すはずだったがそうはならなかった。

広島藩が「一揆をくわだてているのではないか?」と疑い、伝六を捕え、牢から出ることはできたが直後に急死してしまったから。
何があったのか、ほんとうのことはわかっていない。

伝六亡き後も石像をつくりつづけたのは↑柏原林造↑これは本人の似姿だとされている。
尾道から八人の石工を連れてきて、まずは大石に名刺代わりの作品を刻ませた↓
↓「多宝塔」と呼ばれるそれ

それぞれの石工の名前も

佛の下に刻まれている

讀みにくいけれどちゃんと誰だかわかっているのだそうだ。

「多宝塔」は、今は裏道のようになっている↑この参道をのぼってきてはじめて目に入る場所にある。
もともとここにあった花崗岩だから、この位置を基準にして道が引かれたことになる。

多宝塔の別面には不動明王↑これは吉野で観た蔵王大権現と同じく、仏教到来以前から日本にあった修験道で敬われた神像とおなじ姿をしているようにみえた。

多宝塔から境内の端の方に歩いていくと↑こんな船の舳先のような石がある↑
こちらも自然石でもとからここにあったもの

↑先端に刻まれた顏はどうも日本人的ではなく、欧米人の船の先端にあったものを真似た?
うーむわかりません。

さらに、その後ろにある佛の、向かって右上には十字架のような文様が刻まれている↑
これをもって、伝六がはじめた「一観教」なるものは、仏教・神道・道教に加えて耶蘇教(キリスト教)までもとりいれていたと解説する本があるが、これはかなり疑問。
十字架に見えるのは法具のひとつだろう。

この石の上には三体の天狗↑

↑天狗は修験道の行者とむすびつけられるから理解しやすい↑

観音堂↑現在のものは大正年間に建てられているが、瓦は昔の建物のモノも多く再利用されている。
「瓦職人さんが驚くような骨董瓦なんだそうですよ」と、堂守の峰松さん。
峰松という家は柏原伝六の信者にあって、いまでも子孫が護っている。



興味深い事々がたくさんありすぎて整理しきれていません。
4月19日からの本番旅にて、またとりあげるようにいたします^^;

コメント
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