↓マルコ・ポーロも下賜されていたと書いている「ゲレゲ」
これを持っていればモンゴル帝国のどこのジャムチ(街道駅)でも必要なモノが供給される万能パス↑
国内を安全に移動できたことはパクス・モンゴリア(モンゴルの平和)の大きな成果。
↑書かれているのはモンゴル文字?ウイグル文字?
↑こちらはパスパ文字↑多言語国家モンゴル全土で↑どの言葉も表記しやすいようにチベット僧パスパが開発した表音文字。いわば当時のエスペラント文字。パスパはフビライ(クビライ)の侍僧になった人物。パスパ文字は後のハングル文字にも取り入れられているとガイドさんが検索しておしえてくれた
↑「チンギス・ハーン博物館」に展示されていたこれらはレプリカ
↓「歴史博物館」に展示されていたこれも↓
本家モンゴルでホンモノが展示されていないのではよほど希少なのだろう。
「ホンモノはテンリにあります」と言われて、それが日本の天理であるとしばらく分からなかった。
調べてみると★成吉思皇帝聖旨牌子として収蔵されていた※天理参考館のHPにリンクします
↑天理にあるホンモノは常設展示されているのだろうか。※2022年12月に天理を訪れた時のブログにリンクします
↑天理参考館が所蔵している「ゲレゲ」には漢字が書かれている。
「牌子」が中国語での呼び方。
アルファベット表記では「Paiza」になっていた。モンゴル語ではなく中国語の発音を優先したわけだ。
*
モンゴル帝国は西へも侵略を続け、1241年には現ポーランド領ワルシュタット(レグニッツァ)でヨーロッパの騎士たちを相手に大勝利をあげた。
危機感を抱いたローマ法皇イノチェント4世が即位すると、モンゴル皇帝への書状をフランチェスコ会の僧に持たせた。
1245年にカラコルムで第三代皇帝グユク(二代皇帝オゴデイの長子)に謁見し、翌年に返書を託された。
そのレプリカがこれ↓※オリジナルはヴァチカンに保管
↑ペルシャ語で書かれている。ペルシャ語はアラビア語と同様に右から左に横書きしかできない。
なので、この書状も横書きで展示した方がよいと思うのだが…。
もし、イラン人がやってきたら「あれ?わかってないなぁ」と思うだろう。
日本語の書状が横書き展示されているのと同じ。
ローマ法皇の書状は残されていないが、この返信の内容からキリスト教への帰依を求めてきたと推測できる。
グユク帝は「天こそが敬うべき最上のものである」と返信しているそうな。
多民族多宗教の広大な領土を統治していたモンゴルの皇帝には、
キリスト教にこだわるローマ法皇の言葉はスケールが小さく感じられたのではないかしらん。
↓もう一通、モンゴルからヴァチカンに送られた手紙が歴史博物館にあった↓
↑こちらは1302年にローマ法皇ボニファティウス8世に送られたもので原本は同じくヴァチカンに保管されている。
モンゴル語をウイグル文字を使って左から右に縦書き↑
右下の文末に押された印影を拡大してみると↓漢字だ↓
↑あとから調べて「王府定國理民之寶」だと分かった↑
送り主は第七代皇帝のカザン。彼はイスラム教に改宗してイル・ハン国(現イラン、シリアあたり)をスタートさせたとされているが、子供の頃に中国僧によって中国語も学んでいたそうだ。この頃まではモンゴル帝国は分割統治されながらも結束していたのを感じる。
カザンがイスラム教に改宗したあたりから、地域国家に分裂してゆく。
*
モンゴル皇帝フビライが日本に送った書状のレプリカもあった。
↓フビライがこの書状を送ったのは1266年、つまり前出ヴァチカンへの手紙二通の間↓
↑どこの「写し」を写したのだろう。鎌倉時代のオリジナルは現存していない。
↑日本の国立公文書館にあるものも、東大寺が写したものの「写し」である。
※国立公文書館のアーカイブにリンクします
↑日本の公文書館にあるものと比べると、正直ずいぶん雑に筆写されているように見える。
いわゆる元寇の海底遺構の調査によって近年見つかったものも展示してあった↑
↑モンゴル帝国が広大なユーラシア大陸の東西まで統治できたのは、言語・宗教に寛容であったからなのだ。支配者が自分たちの神を強要する世界は生きにくい。
↑最も強大だった時代のモンゴル帝国を率いたフビライ↑
この肖像でもかぶっている帽子(?)冠(?)のホンモノが展示されていた↓
ちゃんと質問しそびれたのだが、この帽子(?)冠(?)は権力を象徴するもので、皇后がデザインしたと解説されていたような。
今度行ったら確認しなくては。
歴代の継承者が被っているところをみると冠というべきものなのかもしれない。
よくわかりません。
これを持っていればモンゴル帝国のどこのジャムチ(街道駅)でも必要なモノが供給される万能パス↑
国内を安全に移動できたことはパクス・モンゴリア(モンゴルの平和)の大きな成果。
↑書かれているのはモンゴル文字?ウイグル文字?
↑こちらはパスパ文字↑多言語国家モンゴル全土で↑どの言葉も表記しやすいようにチベット僧パスパが開発した表音文字。いわば当時のエスペラント文字。パスパはフビライ(クビライ)の侍僧になった人物。パスパ文字は後のハングル文字にも取り入れられているとガイドさんが検索しておしえてくれた
↑「チンギス・ハーン博物館」に展示されていたこれらはレプリカ
↓「歴史博物館」に展示されていたこれも↓
本家モンゴルでホンモノが展示されていないのではよほど希少なのだろう。
「ホンモノはテンリにあります」と言われて、それが日本の天理であるとしばらく分からなかった。
調べてみると★成吉思皇帝聖旨牌子として収蔵されていた※天理参考館のHPにリンクします
↑天理にあるホンモノは常設展示されているのだろうか。※2022年12月に天理を訪れた時のブログにリンクします
↑天理参考館が所蔵している「ゲレゲ」には漢字が書かれている。
「牌子」が中国語での呼び方。
アルファベット表記では「Paiza」になっていた。モンゴル語ではなく中国語の発音を優先したわけだ。
*
モンゴル帝国は西へも侵略を続け、1241年には現ポーランド領ワルシュタット(レグニッツァ)でヨーロッパの騎士たちを相手に大勝利をあげた。
危機感を抱いたローマ法皇イノチェント4世が即位すると、モンゴル皇帝への書状をフランチェスコ会の僧に持たせた。
1245年にカラコルムで第三代皇帝グユク(二代皇帝オゴデイの長子)に謁見し、翌年に返書を託された。
そのレプリカがこれ↓※オリジナルはヴァチカンに保管
↑ペルシャ語で書かれている。ペルシャ語はアラビア語と同様に右から左に横書きしかできない。
なので、この書状も横書きで展示した方がよいと思うのだが…。
もし、イラン人がやってきたら「あれ?わかってないなぁ」と思うだろう。
日本語の書状が横書き展示されているのと同じ。
ローマ法皇の書状は残されていないが、この返信の内容からキリスト教への帰依を求めてきたと推測できる。
グユク帝は「天こそが敬うべき最上のものである」と返信しているそうな。
多民族多宗教の広大な領土を統治していたモンゴルの皇帝には、
キリスト教にこだわるローマ法皇の言葉はスケールが小さく感じられたのではないかしらん。
↓もう一通、モンゴルからヴァチカンに送られた手紙が歴史博物館にあった↓
↑こちらは1302年にローマ法皇ボニファティウス8世に送られたもので原本は同じくヴァチカンに保管されている。
モンゴル語をウイグル文字を使って左から右に縦書き↑
右下の文末に押された印影を拡大してみると↓漢字だ↓
↑あとから調べて「王府定國理民之寶」だと分かった↑
送り主は第七代皇帝のカザン。彼はイスラム教に改宗してイル・ハン国(現イラン、シリアあたり)をスタートさせたとされているが、子供の頃に中国僧によって中国語も学んでいたそうだ。この頃まではモンゴル帝国は分割統治されながらも結束していたのを感じる。
カザンがイスラム教に改宗したあたりから、地域国家に分裂してゆく。
*
モンゴル皇帝フビライが日本に送った書状のレプリカもあった。
↓フビライがこの書状を送ったのは1266年、つまり前出ヴァチカンへの手紙二通の間↓
↑どこの「写し」を写したのだろう。鎌倉時代のオリジナルは現存していない。
↑日本の国立公文書館にあるものも、東大寺が写したものの「写し」である。
※国立公文書館のアーカイブにリンクします
↑日本の公文書館にあるものと比べると、正直ずいぶん雑に筆写されているように見える。
いわゆる元寇の海底遺構の調査によって近年見つかったものも展示してあった↑
↑モンゴル帝国が広大なユーラシア大陸の東西まで統治できたのは、言語・宗教に寛容であったからなのだ。支配者が自分たちの神を強要する世界は生きにくい。
↑最も強大だった時代のモンゴル帝国を率いたフビライ↑
この肖像でもかぶっている帽子(?)冠(?)のホンモノが展示されていた↓
ちゃんと質問しそびれたのだが、この帽子(?)冠(?)は権力を象徴するもので、皇后がデザインしたと解説されていたような。
今度行ったら確認しなくては。
歴代の継承者が被っているところをみると冠というべきものなのかもしれない。
よくわかりません。