たった三十年ほど前に発掘・発見された驚くべき保存状態の石室。
埋蔵文化財センターの方に案内していただいた。
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住宅街の中に突然あらわれる前方後円墳の中で千五百年間崩落しなかった。
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「車塚」という名前は、
桓武天皇の第三皇子=淳名天皇(西暦840年没第53代天皇)の霊柩車を埋めたという伝承によるものだが、
実際にはそれより古い継体天皇(西暦531年没第26代天皇)の時代のものと判明している。
江戸時代から明治初期にかけて、
歴代天皇の陵墓を整備してい行くなかで名前も決まっていった。
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※古墳前の解説版写真より↑江戸から明治初期に植えられた大きな木↑
古墳建造当初には樹木などなく、下部に石を葺いて中段には埴輪が並べられていたと推察されている。
石室は「畿内式」と呼ばれる6世紀初頭から首長クラスに用いられたスタイル。
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玄室をつくるにあたり五段階に分けて巨石を積んでいったのが↑石壁の横線が五層に揃っていることで分かる↑壁に見えている石は石壁内部に向けて細長い形状をしており、上部ほど大きな石を積んだ台形構造であることにより、地震の揺れの時にも耐えてきた。
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↑石棺は二上山から切り出された石を十個組み合わせてつくられている↓
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当初は外も中も真っ赤な朱で覆われていた↓
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↑その名残が一部に残っている。
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被葬者は継体天皇の・いわば「内閣の一員」大臣クラスと推察される。
継体天皇自身の墓とされる高槻の今城塚古墳は、同じ淀川流域にある最大の前方後円墳。
※高槻市のHPにリンクします
2004年の今城塚古墳発掘で発見された、石室からの排水システムと同じものが物集女車塚古墳にもある。
※今城塚の2007年発掘ページにリンクします
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↑この敷石の下に排水用の溝がある↑
昭和の終わりごろになると、
↓周辺の宅地開発がすすむなかで古墳を崩して道路が通されはじめた↓
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↑写真左側の道路は古墳の一部を切り崩して通されている。
この古墳が保全保存すべき場所であることをはっきりさせるために発掘調査がはじまり、石室がみつかった。
同時に周辺の宅地にする場所からも新たな発見があった。
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↑古墳の北側・今は住宅になっている場所からは、桓武天皇の別宅跡が見つかった。
「車塚」の由来になった桓武天皇の息子・淳和天皇も七歳までは首都の長岡京に居た。
父桓武天皇の別荘に滞在した時にはこの古墳を目の前に見ていたにちがいない。
出来て三百年も経っていなかったから埴輪なども残っていたかもしれない。
淳和天皇の霊柩車の塚だという伝承も、自身がこの場所に親しんでいたからできたのだろう。
火葬された場所だという塚は古墳から徒歩圏にある。
**
最初の被葬者が埋葬されてから、五十年ほどの間に三回、石室を開けた形跡がみつかった。
それはつまり、埋葬されている人物の近親者埋葬されたということ。
実際に、発掘当時は正面の石棺の手前に三つ棺棺が置かれていた。
※一般公開するにあたり、現在は取り除かれている。
江戸時代には盗掘に遭っていた。
棺の蓋が地面に転棺り、副葬品と推察されるモノの破片が多数みつかった。
被葬者の墓誌など文字記録は見つかっていない。
埋蔵文化財センターの方に案内していただいた。
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住宅街の中に突然あらわれる前方後円墳の中で千五百年間崩落しなかった。
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「車塚」という名前は、
桓武天皇の第三皇子=淳名天皇(西暦840年没第53代天皇)の霊柩車を埋めたという伝承によるものだが、
実際にはそれより古い継体天皇(西暦531年没第26代天皇)の時代のものと判明している。
江戸時代から明治初期にかけて、
歴代天皇の陵墓を整備してい行くなかで名前も決まっていった。
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※古墳前の解説版写真より↑江戸から明治初期に植えられた大きな木↑
古墳建造当初には樹木などなく、下部に石を葺いて中段には埴輪が並べられていたと推察されている。
石室は「畿内式」と呼ばれる6世紀初頭から首長クラスに用いられたスタイル。
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玄室をつくるにあたり五段階に分けて巨石を積んでいったのが↑石壁の横線が五層に揃っていることで分かる↑壁に見えている石は石壁内部に向けて細長い形状をしており、上部ほど大きな石を積んだ台形構造であることにより、地震の揺れの時にも耐えてきた。
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↑石棺は二上山から切り出された石を十個組み合わせてつくられている↓
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当初は外も中も真っ赤な朱で覆われていた↓
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↑その名残が一部に残っている。
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被葬者は継体天皇の・いわば「内閣の一員」大臣クラスと推察される。
継体天皇自身の墓とされる高槻の今城塚古墳は、同じ淀川流域にある最大の前方後円墳。
※高槻市のHPにリンクします
2004年の今城塚古墳発掘で発見された、石室からの排水システムと同じものが物集女車塚古墳にもある。
※今城塚の2007年発掘ページにリンクします
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↑この敷石の下に排水用の溝がある↑
昭和の終わりごろになると、
↓周辺の宅地開発がすすむなかで古墳を崩して道路が通されはじめた↓
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↑写真左側の道路は古墳の一部を切り崩して通されている。
この古墳が保全保存すべき場所であることをはっきりさせるために発掘調査がはじまり、石室がみつかった。
同時に周辺の宅地にする場所からも新たな発見があった。
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↑古墳の北側・今は住宅になっている場所からは、桓武天皇の別宅跡が見つかった。
「車塚」の由来になった桓武天皇の息子・淳和天皇も七歳までは首都の長岡京に居た。
父桓武天皇の別荘に滞在した時にはこの古墳を目の前に見ていたにちがいない。
出来て三百年も経っていなかったから埴輪なども残っていたかもしれない。
淳和天皇の霊柩車の塚だという伝承も、自身がこの場所に親しんでいたからできたのだろう。
火葬された場所だという塚は古墳から徒歩圏にある。
**
最初の被葬者が埋葬されてから、五十年ほどの間に三回、石室を開けた形跡がみつかった。
それはつまり、埋葬されている人物の近親者埋葬されたということ。
実際に、発掘当時は正面の石棺の手前に三つ棺棺が置かれていた。
※一般公開するにあたり、現在は取り除かれている。
江戸時代には盗掘に遭っていた。
棺の蓋が地面に転棺り、副葬品と推察されるモノの破片が多数みつかった。
被葬者の墓誌など文字記録は見つかっていない。