旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

地震の後、バロックの街へ①ラグーサ

2015-09-18 11:33:21 | イタリア

シチリア島、東岸の古都シラクーサから日帰りで三つの小都市をめぐる一日。 どこも斜面につくられた歴史ある街。

どこも1693年の大地震の後、バロック建築で再整備された事で世界遺産指定された。

●ラグーサがちかづいてくる。斜面なので、こんな橋が町への入口になる ラグーサは二つの地区にわけられる。最初に車を降りた ラグーサ・スペリオールは区画整理されている。

 1693年1月の地震のあと、新興貴族たちは新しい街を築くと決めた。

羊を連れて地震で倒壊した街を出て、野営をした翌朝、放した羊がなかなかつかまらない。

これを「ここに街を築け」という神のご意志と受け取り、建設されたのがラグーサ・スペリオールの街。中心にそびえる大聖堂羊の逸話にちなんで、洗礼者ヨハネ(イタリア語ではジョヴァンニ)を守護聖人とした。教会の入口にそのヨハネの像 大聖堂の内部、真っ黒な石はピエトラ・ペーチェという天然アスファルトに似たものだそうな。※調べてみると古代から使われているラグーサの石油を含んだ特産の石で、1838年にスイス人の手によって工場が建設されて産業のひとつになっている…と自治体の広報ページに書かれていた。 坂の斜面にまっすぐな道が通されて、いかにも計画都市の道路 ラグーサ・スペリオールの街の急な坂をくだってゆくと、突然視界がひらけた。 対岸の丘を埋め尽くしているのが、十七世紀の地震以前からのラグーサ・イブラ。

二つのラグーサを地図で確認。地図上左がラグーサ・スペリオール。市域が狭くなった所から右側がラグーサ・イブラ  地図と下の遠景写真を見比べると、両ラグーサの位置関係井と地形を知る事が出来る。こういう事は実際に目にして歩いてみなくては理解できないのです。

上の写真左側から下る斜面を、車の道ではなく、昔からの階段を降りてゆく途中に「階段の聖母」教会がある。 入口をよく見ると、地震前のゴシック様式のアーチが一部残されている。写真手前に映った折れたゴシックのアーチ⇒

今日は結婚式があるようで、珍しく内部を見ることが出来た 彫刻にロマネスク的な雰囲気が感じられる。おもしろいお猿⇒ こちらはタカとケルビムだろう、なんだか妖怪みたい⇒ 地震の後、使えるものはつかって再建したのがよくわかる。

さらに降りてゆくと、バロックで再建されたお屋敷が点在している

坂を降りきると、古い街への登り坂広場の正面にバロックのファサードが美しくたちあがってきた。 1693年の大地震の後、街の再建に尽力したシラクーサの建築家ロザリオ・ガリアルディが手掛けた。鐘楼とファサードと一体化した当時斬新なスタイルでの再建。広場から正面ではなく、わざと斜めに建てられている。それによって、クーポラも見てほしい、ということであります。※教会は1739年の設計、クーポラは1820年の完成。ガリアルディは現在のクーポラの完成を見ておりませんね。

 こちらも同じくガリアルディの手になるヨセフ教会内部はなんと楕円形 聖ジョルジョ大聖堂の内部 お祭りで外に担ぎ出される山車の聖ジョルジョと、象徴的にその棺 パラッツォ・ラ・ロッカもバロックの彫刻がおもしろい。それぞれの彫刻で上の階がどんな部屋だったのかを表したのだそうだ。たとえば、楽器を演奏していればサロンがあった、とか 同じ建物に、ミシュランの星をもらっているレストランがはいっていた ****

②モディカへ続く

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地震の後、バロックの町へ③ノート 夜はシラクーサで海鮮料理を

2015-09-18 01:38:36 | イタリア

これまでの二つと違い、1693年の地震の後にノートは倒壊した町を完全に放棄した。現在見られるノートの町は、十キロほど離れた場所に一から建設されたのである。

入口にある「王の門」からまっすぐ伸びるのがメインストリートこの門は両シチリア王(ナポリとシチリアの両王国の王という意味)フェルディナンド三世がやってきたのを記念して建設されたそうだ。彼はナポレオン戦争の時代に二度もナポリを追われている。やってきたのは1799年の時か1806年の時か?はたまたその後ナポレオン戦争が終わってからだったのか?

この門から道は大聖堂へ向けてゆっくり上りになってゆく。理由は「王の門」を造ったとき(つまり18世紀末から19世紀はじめ)に、街を拡張する目的でメインストリートの地面を掘り下げたから。 結果、通りに面した教会の入口が歩く人の頭より上に残されてしまっているのがおもしろい通り全体から同じ場所を見るとこんな風→この教会の斜め前に位置するフランチェスコ教会も、大階段の下三分の一はこの拡張時の掘り下げに伴い付け加えられた部分→ さらに五十メートルほど行くと右手に大聖堂→ その正面には市庁舎→ ここまでくればメインストリートは平たんになった。もともと建設された当時の高さに至ったのである。

メインストリートを境に、上の方には貴族や宗教界の上位者が住んだ。なるほど、住宅の一区画が下の町よりもずっと大きい。

ニコラッチ宮殿にはつい最近まで御当主がお住まいになっていたのだそうだ。次の写真、バロックのおもしろい張り出し窓が並んだ建物がそれこの通りは彼ら一族の名前をとってニコラッチ通り  この通り、次の写真のように一年に一度花を敷き詰める祭り「インフィオラータ」(五月の第三日曜)が行われている→昼間だと花が萎れてしまうので夜の間に花を並べるのだとか。下書きの跡が残されていた→

**ニコラッチ通りの上突き当りにあるモンテヴァルジニ教会に入ると、すぐ左におもしろい螺旋階段があった→番をしている女性に二ユーロ払って上ると・・・ずいぶん荒れている。こりゃあつい最近まで閉まっていたな上に行くつれて細くなり・・・最後はここから塔の上に出た

整然と区画されたノートの町の様子が俯瞰できる。登れるところは上っておくべし、ですね(^^)

前出の祭りで花を敷き詰める通りを上から見下ろすと、あれはダリ?

再び狭い階段を下りる途中、かつて修道士が礼拝に参加した場所を通る。そこから見下ろす教会本堂。降りてから中に入ってみると、今も活動している騎士団の旗がいくつも掲げられていたいちばん正面右には、この町の守護聖人サン・コッラードの騎士団の緑色。北イタリア生まれのこの聖人は、地震で倒壊する前の古いノートの町で1351に亡くなり大聖堂に葬られていたが、現在は新しいノートの町に改葬されている。

**

シラクーサに戻り、夕食はオルティージャ島から湾をはさんだ本土側にある海鮮レストランへご案内いただいた。まずは水槽からこのロブスターを

ここで養殖されているという牡蠣は予想外の(失礼)立派なもの シラスを揚げてレモンをしぼって ファゾラーレと呼ばれるこぶりなハマグリのような貝 そして、先ほどのロブスターをつかったパスタと、ウニのパスタも 新鮮な食材をおいしくいただきました。

 

 

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シラクーサ、シチリア本土側

2015-09-17 15:14:41 | イタリア
昼食後、少し休憩にホテルへ戻る道。古代ギリシャのシラクーサへの城壁門跡が、発掘されている
**
午後はシチリア本土側を見学しよう。

シラクーサはローマに次いでカタコンベ(簡単に言えば古代の地下墓地)が多い場所だそうだ。なかでも最大なのが、このサン・ジョヴァンニのカタコンベ。見学できるエリアだけでもこんな感じ。地上の街のように南北通りカルドと東西通りデクマヌスが貫き、そこに沿って整然と墓が置かれている。

内部は写真禁止なので、入口に掲げてあった案内をご紹介このように幅の広い道で、二十人ほどの見学者もゆったり歩けた。
ここははじめから墓地として掘られたのではなく、ギリシャ時代には石切り場で後には水道に使われていた場所になる。キリスト教禁教時代、密かにそこを墓地として使用し始めたのがはじまりである。

***
上の写真で、涙を流す聖母マリアの像が気になりますよね?

すぐ近くにその奇跡が起こった場所があり、今ではモダンな教会がそびえている内部はこんな
中心には、五十センチほどのそのマリア様の半身像この奇跡は1955年のこの場所に住んでいた貧しい夫婦に起こった。出産後に体調を崩して目が見えなくなっていた彼女が、一心に祈る。ある朝起きると、兄から贈られたマリア像が涙を流しているのが「見えた」。その話をききつけた近隣の人々がつめかけている写真バチカンもこの奇跡を「事実」と認定し、巡礼地のひとつになったのである。

教会の地下部分その涙をふいたハンカチが聖遺物として展示されていたそうだが、今はポルトガルのファティマに出張しているそうな。とつぜんこんな古い家の残骸が…さてはその家の跡?いえいえビザンチン時代の遺跡なんだそうです。シチリアらしいです

****
一般的な観光で訪れるのは、「天国の石切り場」だろう。かつてこの場所は地下の石切り場だったのだが、17世紀末の地震でほとんど屋根が落ち、こんな場所になっている↓

レモンなどが植わっている。葉を積んでみるとさわやかな香り。これでミンチ肉を挟んで焼くとおいしいんだとか

屋根が落ちなかった洞窟の一部は、海で使う長い縄を結う職人の仕事場になっていた

そして、いちばん有名なのが、この「ディオニシオスの耳」確かに耳の様な形をしている。この名前をつけたのは1608年に訪れた画家のカラヴァッジョだとされている。洞窟に閉じ込められた古代アテネの虜囚の話に、洞窟の奥上部にある穴から僭主ディオニシオスが聞き耳をたてていた、というのである

この穴も、ギリシャ時代の水路がもとになっている。天井をみあげるとその当時の名残があった

すぐ近くにあるギリシャ時代のテアトルが美しい

傾斜地を利用してつくられ、観客席後ろ側が、前述の石切り場の端となっている。山から運ばれてきた水は、今でも滔々と流れ出していた

*****
19時半、夕暮れてきた街を歩いて夕食へ。
せっかくのこの時間、大聖堂の広場へ遠回りしよう
古代ギリシャの神殿をりようした教会の、昼とはまた違った美しさ。

聖ルチアの教会の右横の通りから漏れる黄色い街灯の光が、大理石の床に反射している。


******
四年ほど前に訪れた路地のレストラン。こんな席の出し方おなかいっぱいいただきました
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シラクーサ、オルティージャ島を歩く

2015-09-17 11:35:02 | イタリア
シラクーサの朝、オルティージャ島の入口に位置するホテルの最上階で朝食

古代のシチリアで、シラクーサが一番重要な街であったのは、この島がつくる天然の良港のおかげである。

面積1平方キロメートルほどしかないが、古代から現代までが詰まった島。そして、海の中の島にもかかわらず、真水が湧き出すアレトゥーザの泉がある。これも人が住むために重要な要素

オルティージャとは「ウズラ」という意味だそうな。そのくちばしの先端=岬の突端には、現代でも要塞がある

現在みられる要塞の骨格は、この13世紀に神聖ローマ皇帝兼シチリア王のフェデリーコ二世が建設したこの四角い部分

第二次大戦においても重要な場所だったので、現代の大砲が置かれた跡がはっきり見える十数年前までは軍が管理する場所だったのだそうだ。

1943年のイギリス軍上陸線に関連した場所について、こちらに書きました。


要塞の内部は修復中。この写真で扉の上部左右のくぼみに置かれていたという、青銅の羊についての話が興味深かった。展示室にはそのレプリカが二頭ならべられていた。


調べてみると、この羊はなんと、紀元前三世紀末アルキメデスの時代にさかのぼるものだという。
アルキメデスはローマ軍に対抗するためにに数々の兵器を考案したことでも知られる。

現地での説明版によると、この羊は古代シラクーサの中心広場四隅の四本の柱の上に置かれていたという。羊には穴があけられていて風が通り抜けてゆく時に羊が鳴くような音を出し、風の向きと強さを知らせたのだそうだ。
この言い伝え、信じるか信じないかは、あなた次第ですが。

その後、羊は、1038年にアラブからシラクーサを取り戻したビザンチンの将軍マニアーチェが宮殿に飾ったとされるが、仔細は分からない。別の話では、シラクーサがローマに占領された後に行方不明になり、15世紀になって地中から発見されたとあった。

要塞入口左右に羊が設置したのは、スペイン・アラゴン家の支配下ジョヴァンニ・ヴェンティミーリア。これは、確かめられている事実のようだ。

現在、この羊二頭はパレルモの博物館所蔵。

もともと四本の柱の上に置かれていたとすると、あとの二頭はいずこ?
まだこの要塞の地下どこかに埋もれているやもしれませぬ・・・

**
少し戻って大聖堂のある広場へ向かう。あたかも劇場のような細長い空間が建物の間からみえてくる。

上の写真で奥右手に見えている大聖堂を正面左手からみるすると、横の壁の部分にギリシャの神殿の柱がそのまま使われているが見える。
紀元前五世紀のアテネ神殿のドーリア式の柱が、そのままキリスト教の教会を支えているのである。

内部も古代神殿の構造がそのまま引き継がれている。
下の写真のアーチは、七世紀に聖ゾジモが教会に改造した時にあけられたもので、もともと神殿ではただの壁だった入口方向をふりかえると、ドーリア式の柱がど~んと扉の左右を支える古代神殿ではしかし、入口ではなくいちばん奥であった。ギリシャ神殿は入口が東を向き、教会は入口が西を向いているのが通常であったから。※例外の教会も多々ありますが

奥の礼拝堂に、イタリアにはじめて油彩画を伝えたというアントネッロ・ダ・メッシーナの描いた聖ゾジモの祭壇画。一見の価値があるゾジモは、前述のように、紀元後七世紀に神殿壁に穴を開けてアーチ構造に変えた人物。

驚くのは、巨大な石の柱がところどころでずれている事。下の写真で、下の基部と上部がずれているのがわかっていただけるだろうか↓

このずれは1693年の大地震の時に起きた。
ずれたのを元に戻す事はできず、そのまま壁に埋め込んで補強したのだった。

カンツォーネで有名なサンタ・ルチアは、実はここシラクーサの人。
もともとは、この大聖堂に遺体があった。下は現在のサンタ・ルチア礼拝堂1038年にヴィザンチン帝国の将軍マニアーチェが街をアラブ人から解放すると、有名な聖女の遺体はヴィザンチンの首都コンスタンチノープルに運ばれてしまった。さらに、1204年に第四回十字軍でコンスタンチノープルが陥落すると、ヴェネチアに運ばれる。現在サンタ・ルチア駅となった場所にあった教会に納められたのだった。

2014年12月、サンタ・ルチアの遺骸はしばし里帰りを果たした。それを記念するプレートがこれ

***
★この大聖堂広場の地下に、巨大な空洞が広がっている事はあまり知られていない。2010年になって、そこを見学できるようになった。今回是非見たかった場所である まず、地図がある。赤色が地上の建物、青い線が地下の空洞。手が指さしている部分が大聖堂となりにある司教館の中庭で、円形のドームとなっている部分そこを見上げるとこんな感じ

いったいこの場所は何なのか?
もともとはギリシャ時代の水路だったと書かれた本があったが、よくよく説明をきいていくと、貯水槽というのが正しい位置づけと思えた。島だから、ここに地下水道が水を運んでいるのではなく、雨水と湧き水をためておくための空間だった。
貯水槽を補修するために上り下りした古代の穴がところどころにあって、古代の人の足場が刻みつけられていた

現代になるともう水はなくなっていて、第二次大戦時には防空壕として使われた
戦争からの避難に際し、前述の聖女ルチア礼拝堂にある聖女のお棺と左手は、あらたに専用の部屋をくりぬいて安置されたのだそうだ。

地下道は四方へひろがっている
ガイドさんに別れを告げて、言われた道をひたすらゆくと…なんと、海のそばのこんな出口にたどりついたのだったなにげなく座っている彼が番をしております。

*****
大聖堂の広場にあるも一つの教会にも言及しておかなくてはならない。サンタ・ルチア・バディア教会ここにはカラヴァッジョが1608年に画いた聖ルチアの埋葬の絵が展示されている。
カラヴァッジョはもともと聖女ルチアの遺骸が埋葬された本土にあるカタコンベの上の祭壇に飾ったとされている。
最近までベッローモ博物館にあって、小松も以前にはそこで見たのだが、さて今回はどんな風に展示されているのだろう…え?撮影禁止? え?それに、とっても遠い展示で細部のすごさがよく伝わりません。

天井には、聖女ルチアの奇跡のひとつ、飢餓に際して祈ると小麦を満載した船がシラクーサに入港する図がえがかれている

******


シラクーサ最古のアポロ神殿。街のど真ん中にこんな遺跡があるのは、この古代の神殿の残存部分を内包していた警察署の建物を除去した結果。

古代神殿以降に付け加えられた窓の部分などが見える。

*******
さて、そろそろお昼。近くの市場へいくとしよう。アポロ神殿のある広場から海まで続く一本の道。野菜魚肉なんでも売っている観光客がすぐに食べられる焼いたパプリカも

小松がいちばん楽しみにしているのは、こんなトマトこれまでの経験から、チューブにはいった市販品とは全く違う味わいなのだ。
からすみもたくさん売られているが、まぐろからつくられた絶品からすみがこちら。ねっとり・しっとりとした味わいが断面からも感じられるこんなふうに食べる昼食がいいんです(^^)

これで二人分…おもったよりしっかりたべることになった

・・・午後は、オルティージャ島の外のシラクーサを見学しよう。

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会津・農業研修下見

2015-09-07 11:30:06 | 国内


**10月10-11日のJA会津みどり農業研修の下見

会津若松駅前からバスにのって三十分強、会津坂下地区に到着する。このあたり、鉄道もあるが本数があまりにすくない。バスが便利なエリアなのだ。それは訪れて駅を見てみてはじめて理解した

事務所でしばらくお話しして、出発。
一般的な観光地である
●中田観音門に巨大な草鞋。ここは会津三十三観音のひとつで、重要文化財に指定された観音様がある。おもしろいのは、「だきつき柱」。写真の右手に少し写っている太い柱に抱きついて願うと叶うとされている有名な逸話として、野口英世の母シカが、毎月猪苗代から歩いてここまでお参りにきていたというのがある。⇒こちらのページに解説があります。

ふと、みると、古い石柱に「国宝」の文字がある。「重要文化財」だけれど、国宝ではないのでは?しらべてみると、面白いことがわかった。
この柱が建てられた昭和三年には確かに「国宝」だったのだ。
戦後の昭和二十五年になって「文化財保護法」という法律により、それまで何百という数になっていた当時の「国宝」は、全部「重要文化財」に、いわば格下げされた。
現在の国宝は、あらためてそこから選ばれた、いわば「国宝中の国宝」だということになる。
この石の柱は、指定が変わっても取り除かれはしなかった。それでよいと思います。

●にんじん湯
今回の宿泊場所に指定されたのがここなにゆえ、「にんじん」なのかと思ったが、会津における朝鮮人参のストーリーをうかがって、がぜん興味がわいた。⇒こちらに載せましたのでお読みください。
はちみつに朝鮮人参を漬け込んだお土産もあった

特産物をいろいろおしえていただいた
●高田梅かなり大きな梅だというのは、袋に入っている漬けこまれた実を見て思ったが⇒こちらのページを読んで理解しました。カリカリとした食感なのだそうです。
いや、買おうと思ったら、その日は棚卸でざんねん!

●ワイン生産されたものの多くはメルシャンが買い取って、ブレンドしているそうだ。しかし、ブレンドしないで高い商品価値を持っているのが、新鶴シャルドネというボトル。写真では一番左に写っている。 なんでも川島なお美さんが絶賛して、日本の航空会社がビジネスクラスで出すひとつに加えられたのだとか。これも棚卸で買えず!
村を走っているともうすぐ収穫されるブドウがたくさんみられた

***
会津盆地は、事故を起こした原発から山を越えて約百キロは離れている。それでも、米をはじめとしたこういった農産物は風評被害を受け、除染が行われてきた。
今回の農業研修旅では、その除染の様子も説明していただける。
稲刈り、穂木積み、そしてまだ販売には至っていないが特産にしようとしている味噌作りも体験できる。
通常の観光で訪れても、地元の方々に説明していただいて、語り合うという機会はまず、得られない。

★2015年10月10-11日
一泊二日、宿・食事・東京からの送迎バスもついて、
なんと一万円!(現地JAへの実費七千円)※政府の援助によりこの価格で実施できます。 
⇒こちらから内容ごらんください。
あと数名、受け入れ可能です。
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