(はなうど 赤塚植物園)
花独活や雨にあらはるけもの道
花独活に日照雨の脚の早きかな
今日の二句はいずれも雨を詠みこんだ。
いや、その他に詠めなかった。
この花に出会ったのは父の故郷だったと記憶している
山里の天気は晴れるにしても雨にしても激しく、
この辺の草木はそうとう根がすわってるだろうと
勝手な解釈をする。
この「雨」実を言うと私の常套手段で、手持ちの取材が
無くなると度々出てくる。言い換えれば「雨」に逃げる
客観(だれでも体験する)であり、既視感を共有する
もしかすると私だけでないかも知れないが・・・・
去る5月6日は久保田万太郎の忌日、浅草神社の境内
に「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」の句碑がある。
この浅草寺界隈は芭蕉をはじめ多くの俳人の句碑があり
あまり知られていないのか訪れる人も少ない。
この万太郎はそうとうの雨男だったという。。
「傘雨」という俳号もその辺に有るのだろう、万太郎には
水をよく詠んだ句が多いが、そこは私と違いはっきりとした
意識の中(心の根底)にあって詠んでいる。
秋風や水に落ちたる空のいろ
短日やされどあかるき水の上
短夜のあけゆく水の匂かな
ゆく年や草の底ゆく水の音
古暦水はくらきを流れけり 久保田万太郎
俳句をするにおいて、常套の語彙をもつ事はけして
悪い事でなくむしろ、語彙を蓄積する努力をすべきだと
考える。吟行なら心してす取材を書きのこすが、ふとした
感動の出会いを見逃すほうが多い。推敲とは違い一瞬の
語彙の選別が一単語だけで記憶に残り、その後句になす
時にそれ以上の上積みはないように思う。これが
俳句における「授かる」で、「授かる」ためには日頃の語彙の
蓄積に他ならない。それは多くの句集を読み、多作をして
備わるものだろう。
二日目の煮物ふつふつ傘雨の忌 ころころ