熊本熊的日常

日常生活についての雑記

骨董考

2008年04月05日 | Weblog
世界最大規模といわれるPortbello Roadの骨董市に出かけてきた。通りに面して建つ店舗と露店と露店が多数入居する建物があり、店舗形態以上に多様な商品に驚かされる。「玉石混淆」とはこのような状態を指し示す言葉なのだろう。

ほぼ南北に走る通りを南から歩き始めると、最初は比較的まっとうな骨董店が軒を連ねている。進むにつれて露店が並び始め、並んでいる商品も怪しげなものが目立つようになる。さらに進むと、いつのまにか「骨董」とは言えないものが増え、やがて生鮮食品などが並ぶありきたりの青空市になる。

それでも並んでいる店舗の業態は何となくまとまりのようなものがあるが、明確な境界は無い。そこが面白いところでもある。骨董というのは人によって認める価値が全く異なる。或る人にとっては、金を付けてもらっても欲しくないような物に、別の人が大枚をはたく。

勿論、来歴が明確で、風雪に耐えて磨き抜かれた価値というものもあるだろう。しかし、そうした価値を持つものは稀少であり、その希少性故に高額で取引される。一般には「形ある物はいつか壊れる」のであって、もともとの存在意図とは全く別の形態で後世に伝えられているものが多いのではないだろうか。その存在意図の想像ができる人が見出す価値が、単なるガラクタと骨董を分けることになるのだろう。

テレビ番組の影響もあるのだろうが、骨董に過度の商品価値を期待する風潮があるような気がする。それを売ってどうこう、というのは骨董屋が商売で考えることであって、自分の持ち物のとして見るなら、単に好きか嫌いかで選ぶことしかできないと思う。鑑定によって制作された時代や、製作した人を特定できたとして、それがどうだというのだろう。「応無所在、而生其心」という言葉がある。常に不確実性のなかにあるのが我々の生である。そんなところに、そもそも、定め得るものなどあるのだろうか。