熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「男と女の家」

2008年04月27日 | Weblog
この著者の西洋上等日本劣等風な考え方には違和感を拭えないのだが、読み物としては面白かった。この本もエッセイ集だが、標題にもなっている家におけるセックスの扱いに関する論考はいろいろ考えさせられるものがあった。

自分は現在一人暮らしだが、このままずっと一人暮らしを続けるのか、伴侶に恵まれて共同生活を送ることになるのか、先のことはわからない。しかし、これは考えておかなければならないことである。そうしたことも自分の人生の重要な要素であるからだ。相手のある話なので、自分で勝手に決め打ちをするわけにもいかないところが難しいところではある。

確かに、著者が語るように、夫婦や親子の関係によって、それを収める家の造りは自ずと違ったものになる。また、家の造りがそうした関係を良くも悪くもするということもあるだろう。人間というのは環境の影響を受けるものである。家の造りという物理的に最も身近な環境が、その家で暮らす人々の間の関係にも多かれ少なかれ影響を与えるのは当然のことだろう。但し、忘れてはならないのは、そうした関係性というものは時々刻々と変化するものだが、家は建ててしまったら、簡単には変えられないということである。結局、今どういう関係か、ということよりも、これからどういう関係を築きたいのか、ということを十分考える必要がありそうだ。関係というのは相手のある話なので、要するにその家で生活する人たちがよく話し合って、住まい方のみならず生き方に至るまで、それぞれの考え方をある程度すり合わせる、すり合わせる振りをする、といったことは必要なのだろう。

夫婦という形を取るか否かはさておき、家の中での男と女の関係は、あまりおおっぴらに語られることはないが、その家の住み心地を規定する要素としては決定的に大きい、と、私も思う。基本は一緒に暮らすべきではない相手を伴侶に選ばないということに尽きる。ひとりひとり別々の文化を持った人間どうしが共同生活をするのだから、多少の葛藤はあるのが当然である。しかし、価値観の根本的な部分で相容れないものがあると、いつか必ず破綻する。暮らし始めればなんとかなるだろう、という了見は失敗の最大原因だ。勿論、大人どうしの関係なのだから、実際に暮らしながら調整や妥協ができることはたくさんある。一方で、暮らし始めてみて、亀裂が一層深まることもいろいろ出てくるものである。

そうした相性のようなものが端的に現れるのが食事とセックスだと思う。一緒に食事をして楽しいと思えない相手は要注意である。少なくとも、私は食という行為を軽視する人とは気持ちよく生活できない。そして、男と女の間において肉体関係を軽視するのは禁物である。セックスは単に行為だけの問題ではないのである。相性がそこに集約されると言ってもよいのではないかとさえ思う。気持ちよくセックスできないような相手と心地よい関係を構築できるとは思えないし、気持ちよくセックスできる家でなければ、住み心地が良い家とは言えない。

以前にも書いたように、今は囚人のような生活なので、精神の健康を維持するのに最低限必要なものがどのようなものかを模索しながら暮らしている。そして、その最低限というものがなんとなく了解されてきたように思う。但し、それは自分一人で暮らす場合の最低限であり、一緒に暮らす相手がいる場合は、その相手によって、また別の基準ができあがる。しかし、少なくとも自分にとっての最低限が見えてきたということは、今回のこちらでのこれまでの暮らしのなかでの大きな収穫である。