熊本熊的日常

日常生活についての雑記

親子という関係

2008年04月15日 | Weblog
離婚する時、子供の親権が問題になる。現実には、多くの場合、母親が親権を取ることになるのだが、子供に意思決定能力があれば、子供の意見も尊重しなければならない。

私の場合、自宅は財産分与で相手に渡すつもりでいたが、親権は子供の選択を尊重することにしていた。私と子供が2人で暮らすことも想定して、子供の通学の便の良い場所に家を借りる手はずも整えておいた。結果的には、子供は母親と暮らすという選択をし、私はこうして単身ロンドンに渡ることにしたわけだが、決して親子の関係が悪いわけではないと認識している。

やはり、子供にとって母親というのは特別な存在なのだろう。また、母親にとっても子供というのは、何歳になっても子供という特別な存在なのだろう。しかし、だからと言って、その「特別」がいつまでも同じ形で続くのは不自然であるように思われる。

健全な成長というのは、身体的な成長だけでなく、家族間の関係性の成長をも意味すると私は考える。関係性の成長とは、子が保護を求め、親がその保護を与えるという関係から、人と人との対等な関係への変化である。それは即ち、子が人として巣立ち、親も「親」という看板を降ろして一個人に戻ることである。人は、個人として満ち足りていれば、自分以外のものに依存しなくても生活していくことができるものである。戻るべき個人の姿を想定できず、何事かに、或は何者かに依存していなくては自己の保持ができないというのは不幸なことであろう。

現実には、このような「成長」は容易ではない。誰もが程度の差こそあれ、身内との間に何がしかの葛藤を抱えるものである。しかし、成長を強いられる局面は必ず到来する。子供からのメールを読みながら、自分も、やがて子供と個人対個人として向き合うことができるよう、浅薄な中身をなんとかしなければならないと思うのである。