熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「乳と卵」

2009年03月10日 | Weblog
これもいわゆるプロレタリア文学なのだろうか。文学というのは、その時代時代の空気を反映するものだが、最近の小説には正規雇用の登場人物が少ないように感じる。この作品の主人公は何をして生活の糧を得ているのか判然としないが、彼女の家にやって来る姉はスナックのホステスだ。ホステスと言っても叩き上げではなく、スーパーの事務、工場のパート、レジ打ち梱包、などなどから発展的に現在の仕事に行き着いたということだ。おそらく、作品を書く人たちの身近に、毎日決まった時間に仕事にでかけて毎日似たような仕事を繰り返すというような人がいないのではないだろうか。活字離れと言われて久しいが、文芸はもはや万人の娯楽ではなく、極めて限られた人々だけの間で書かれたり読まれたりする特殊な世界になってしまったのだろう。寂しいことである。

口語体で書かれた作品だ。それも関西の言葉。私は関西で暮らしたことがないので、関西語というのはメディアや限られた友人知人を通じて耳にするだけである。それでも文章になんとかくらいついていけるのは、それだけ今の時代に流通している情報量が膨大だということの証左なのかもしれない。この作者の文体が日本の文学界では高い評価を得ているらしい。確かに言葉というのは時代とともに変化するものではある。これが小説の文体として画期的なものだと言われれば、そうなのだろうが、私にはこのような文体のどこに良さがあるのかさっぱりわからない。

それでも、独特のリズムとテンポが感じられる文章を読み進めていくと、物語の映像が自然に脳裏に構成される。主人公の姉が豊胸手術を受けようとしていることも、姉の娘が初潮を迎えようとしていることも、今という時代を切り取る独自の視点を与えるという効果はあるだろうが、別に整形手術や初潮の直前という状況を与えなくても、ここで語られているような話は書けるのではないかと思う。

関西口語にしても、整形と初潮の母子家庭にしても、作品の商業価値を意識していると思えるような嫌らしさを感じてしまう。1,000円で売ればよいものを998円という値札を付けて売り込むような、そんな嫌らしさだ。今はそういう人を馬鹿にしたような商売が多いだけに、せめて小説の世界くらいには、言葉の美しさとか人間の美しさを素直に評価する価値観が残っていて欲しい。