「ひとりよがりのものさし」を手にしたのは去年の4月22日のことだ。奥付けには平成15年11月20日発行とある。出版されてから5年近くも経っているというのに、なぜこれまで知らなかったのだろうと、自分にがっかりしたものだ。目次の次の頁には著者の坂田氏が自分の店の奥に笑顔で収まっている写真。こういう人相の人は頑固な人が多いんだよなぁと思いながら、なぜか緊張しつつ、暇さえあれば頁をめくって眺めている。購入してから1年弱だが、今のところはこれが一番のお気に入りの本だ。
今、書店の店頭に並んでいる芸術新潮の4月号は、その坂田氏が参加して「パリと骨董」という特集が組まれている。特集の後半は恵比寿でタミゼという骨董品店を経営されている吉田昌太郎氏の目を軸に構成されている。ご両人ともそれぞれに確固とした座標軸をお持ちのようなので、そこで紹介されている店や町の記事を読んでいるだけで愉快な気分になる。
この雑誌は「芸術」を誌名に冠しながら、既存の「芸術」的価値観を脱しようと奮闘しているかのような愉快な記事が多いので、定期購読をしている。社会の枠組みのなかで生きている限り、既存の価値観を再考するというのは、思考に習慣性がある限りなかなか容易なことではない。しかも出版元が大手であれば、なおさらのこと、新しいものを創造したり提示することには意識するとしないとにかかわらず自己規制が働いてしまったり、そもそも発想に限界があったりしてうまくいかないように思う。しかし、それでも敢えて挑戦している気概のようなものは伝わってくる。そこがいい。
隣の芝生は青く見えるという。ロンドンでの生活が、個人的ないくつかの不愉快な出来事とも相まって、あまり良い印象を受けるようなものではなかった所為もあり、一泊で2回だけしか訪れたことのないパリの印象が妙に良い。どこがどう良いということではない。全体としての印象が良いとしか言いようが無い。おそらく雑誌のなかで紹介されている人々の記事全体と、そのなかの食堂の店主の言葉が、その良さの何事かを象徴しているように思う。曰く「パリのよいところは、たとえほそぼそとでも、手をぬかずに、ほかではできない仕事をつづけていれば、かならずだれかがみとめてくれることです」。さて、東京はどうだろう?
この雑誌の81頁に自分が持っているのと似たような「手」の写真があった。私は骨董だの古道具だのという趣味はないので、私が持っているのは新品である。それに、写真の「手」とちがって、私が持っているのは全ての関節が動くようになっている。関節が動くようになっているのといないのとでは、指の佇まいが全く違うことが写真でわかる。写真の「手」は人差し指だけ第二関節が可動式になっていて他の指の関節は動くようにできていない。だから、関節の細工がある人差し指だけが義指のように見える。その佇まいのアンバランスが妙な存在感を醸し出しているように見える。ただ指の作りの違いはともかくとして、私は写真の「手」が欲しいと思った。なぜなら、それが左手だったから。私が持っているのは右手なので、左があれば一対になって楽しげな配置にして遊ぶことができそうだと思った。
今、書店の店頭に並んでいる芸術新潮の4月号は、その坂田氏が参加して「パリと骨董」という特集が組まれている。特集の後半は恵比寿でタミゼという骨董品店を経営されている吉田昌太郎氏の目を軸に構成されている。ご両人ともそれぞれに確固とした座標軸をお持ちのようなので、そこで紹介されている店や町の記事を読んでいるだけで愉快な気分になる。
この雑誌は「芸術」を誌名に冠しながら、既存の「芸術」的価値観を脱しようと奮闘しているかのような愉快な記事が多いので、定期購読をしている。社会の枠組みのなかで生きている限り、既存の価値観を再考するというのは、思考に習慣性がある限りなかなか容易なことではない。しかも出版元が大手であれば、なおさらのこと、新しいものを創造したり提示することには意識するとしないとにかかわらず自己規制が働いてしまったり、そもそも発想に限界があったりしてうまくいかないように思う。しかし、それでも敢えて挑戦している気概のようなものは伝わってくる。そこがいい。
隣の芝生は青く見えるという。ロンドンでの生活が、個人的ないくつかの不愉快な出来事とも相まって、あまり良い印象を受けるようなものではなかった所為もあり、一泊で2回だけしか訪れたことのないパリの印象が妙に良い。どこがどう良いということではない。全体としての印象が良いとしか言いようが無い。おそらく雑誌のなかで紹介されている人々の記事全体と、そのなかの食堂の店主の言葉が、その良さの何事かを象徴しているように思う。曰く「パリのよいところは、たとえほそぼそとでも、手をぬかずに、ほかではできない仕事をつづけていれば、かならずだれかがみとめてくれることです」。さて、東京はどうだろう?
この雑誌の81頁に自分が持っているのと似たような「手」の写真があった。私は骨董だの古道具だのという趣味はないので、私が持っているのは新品である。それに、写真の「手」とちがって、私が持っているのは全ての関節が動くようになっている。関節が動くようになっているのといないのとでは、指の佇まいが全く違うことが写真でわかる。写真の「手」は人差し指だけ第二関節が可動式になっていて他の指の関節は動くようにできていない。だから、関節の細工がある人差し指だけが義指のように見える。その佇まいのアンバランスが妙な存在感を醸し出しているように見える。ただ指の作りの違いはともかくとして、私は写真の「手」が欲しいと思った。なぜなら、それが左手だったから。私が持っているのは右手なので、左があれば一対になって楽しげな配置にして遊ぶことができそうだと思った。