熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ピカソとクレーの生きた時代

2009年03月21日 | Weblog
ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館の改装工事のおかげで、同館の主要コレクションを東京で観る機会に恵まれた。

この美術館がクレーのコレクションを蒐集するに至った理由が興味深い。クレーがデュッセルドルフで暮らしたのは1931年から1933年の間に過ぎないのだが、ここはクレーにとってはドイツでの暮らしに終止符を打った土地でもある。ナチス政権成立後に前衛芸術への弾圧が激化し、デュッセルドルフの美術学校で教授をしていたクレーは、ここから追い出されるように故郷スイスへ亡命を余儀なくされたのである。戦後、デュッセルドルフの人々のなかにはそんなクレーのために何か自分たちでできることはないかと考えていたという。たまたま1960年にクレーの作品がまとまった量で美術市場に登場し、州政府がそれを購入することを決断したのだそうだ。結果としてクレーをドイツから追い出すことになってしまったことへの償いの意図があったのだという。このクレーの作品を核のひとつに州立美術館が開設されることになったのである。

欧州の歴史を見れば、「激動」と呼べるほど頻繁に国境線が変化している。現在の状態に落ちついたのはコソボが独立を宣言した2008年2月のことである。コソボの独立にしても、それを承認しているのは国連加盟192カ国のうち日本を含む55カ国でしかない(2009年2月25日現在)。日本がコソボとの外交関係を正式に開設したのは先月25日のことである。日本が独立を承認したということは、欧米主要国も同様の判断を下しているということでもあるが、欧州連合内でもスペインやギリシャは承認していない。国連安全保障理事会においてもロシア、中国という拒否権保有国が承認を行っていない。スペインやギリシャが承認しないのは、これらの国々が自国内に少数民族による独立運動を抱えている所為でもある。欧州連合の行方も混沌としており、そうしたなかで今まさに未曾有の世界的な経済危機があり、予断を許さない状況といえる。

そうした激動の歴史のなかにあるが故に、欧州の人々には過去へのこだわりというものが強いように思われる。それは街並ひとつとってみても感じられることだ。それが良いとか悪いということではなく、現在の自分のありようが過去の歴史の積み重ねの上にあるという意識が激しい変化のなかで研ぎ澄まされたということなのかもしれない。

さて、「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」だが、会場入って最初の展示がマティス、ドラン、ブラックの小品3点だ。ほぼ同時代1904年から1907年にかけて描かれた風景画である。3点とも点画描法によるもので似た雰囲気がある。しかし、周知の通り、3人とも点画からそれぞれのスタイルへと変容していくのである。ある変化の出発点を示すものとして、まさに20世紀のはじめに描かれた3点の作品を並べるというのは上手いと思う。次がフランツ・マルクとアウグスト・マッケの作品。2人とも第一次世界大戦で戦死している。戦死した作家の作品を並べることで、戦争を描かずに戦争の影を表現している。20世紀は戦争の世紀でもある。

ピカソの偉大さは、その作品を観るだけで体感できる。やはり他の作家とは違う。ブリヂストン美術館にあるサルタンバンクだけでもその存在感は十分に感じ取ることができるが、今回展示されている「2人の座る裸婦」は強烈だ。オランジュリーにある「大きな浴女」と同時代同系列の作品だが、手足の表現に思わず惹き付けられてしまう。「鏡の前の女」と「肘掛け椅子に座る女」を同じ部屋で観ることができるのも良い。片や1937年の作、片や1941年。この4年の間に何があったのだろうと想像力を刺激される。

モランディも不思議な作品を描く人だ。何の変哲もない静物画なのに、言いようの無い変哲を感じてしまう。変哲といえば、ルネ・マグリットは変哲の塊のような作品を描く。今回3点が展示されているが「とてつもない日々」はほんとうにとてつもない。現実とは何かということを問い続けた人であるように思う。

クレーの作品をこれほどまとめて観るのは初めてだ。本展チケットの図案にもなっている「リズミカルな森のラクダ」をはじめとして、抽象画でありながらどこか心安らぐものを感じさせる。気のせいかもしれないが、ナチス政権から迫害を受けた困難な時代の作品ほど、そうした傾向が強く表れているように見える。現実の中の困難から作品のなかに逃避、あるいは昇華させたということなのだろうか。人の生というのは、均衡の上に成り立つのだろう。そのバランスのとりかたは、各自各様だが、傍目にどれほど酷い状況に見えていても当人が自分の均衡を見出している限りは、いきいきとしていられるものなのかもしれない。逆に、どれほど華やかで順風満帆に見えても、当人が均衡を失っていては生きていることができなくなってしまうということなのだろう。