日本では「ルーヴル」と名前のつく展覧会はとりあえず混雑するような印象がある。もちろん、ルーヴルの収蔵品はどれも吟味し尽くされたものなので、どんなものであれ、日本にいながらにして観ることができるのなら、観ておいて損はない。しかし、… と野暮な話は止めておく。
国立西洋美術館で開催中の「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」を観て来た。チケットやカタログの表紙を飾るのはフェルメールの「レースを編む女」。フェルメールは寡作で知られる作家で、ルーヴルといえども2点しか収蔵していない。そのうちの1点を今回日本へよこしたのだから、そのことだけでもいかに日本の美術シーンを重要視しているかということがわかるだろう。そして、実際に会場に足を踏み入れれば、よくもこれほどの作品を貸し出してくれたものだと感心ししてしまうほどだ。
ル・ナン兄弟「農民の家族」は、本物の農民の生活をモデルにしながらも、それがあたかも別世界のものであるかのように止揚されている。おそらく実物よりはるかに清潔に人物や室内を描き、その表情に強さを与え、聖性を感じさせる光をあてることで、日常を描いているように見せながら日常を超越した世界を描いているように見える。このような作品を観ると、何故か心が洗われるような心地よさを感じてしまう。アドリアーン・コールテは日本では馴染みがないかもしれないが本展に出品されている「5つの貝殻」だけでも入場料を払って観る価値があると思う。実は、昨年の夏にルーヴルを訪れたときは、この作品は全く印象に残らなかった。ルーヴルではリシュリュウ翼の2階(日本式に数えれば3階)、エスカレーターを上がったところからオランダ・フランドルの17世紀絵画の展示が始まり、そこから見学を始めているので、観たとすれば、まだ疲労も始まっていない時間に観ているはずだ。ところが、今回、この作品を前にして、初めて対面するような心持ちがした。もったいないことをしたものだと思うと同時に、今こうして観ることができて本当によかったとも思う。
ジョルジュ・ラ・トゥール「大工ヨセフ」もいい。2005年に東京で「ラ・トゥール展」が開催されたときにも来日している作品なのかもしれないが、当時はまだ、絵画にそれほど興味がなかった。ましてや17世紀の絵画など関心の外だった。もちろんルーヴルにはまとまった数のラ・トゥールの作品が展示されており、自分にとっては「いかさま師」の存在感が圧倒的なものに感じられた。作品の大きさと配置の関係もあるのだが、やはり中央に座っている女性の目に射すくめられてしまう。ラ・トゥールの作品は人物の目に特徴があるように思う。「大工ヨセフ」でもヨセフの目が印象的だ。
ウィレム・ドロストの「バテシバ」にも目が離せない。尤も、目が離せないのは作品そのものというよりも、バテシバの美しい乳房かもしれない。同じモチーフでドロストの師であるレンブラントが描いた作品がルーヴルにある。こちらは裸婦像だが、個人的にはドロストの作品のほうが好きだ。それは、ドロストのバテシバのほうが美しいから。レンブラントのほうのバテシバのモデルはレンブラントの女中から後に愛人になったと言われる人物だそうだ。男女の関係は恋人、愛人、配偶者と様々だが、同じ相手で一連の関係を経験することもあれば、相手と関係性が固定されている場合もある。それぞれに相手に対する視線が違うのが一般的だろう。レンブラントのバテシバは、言われてみれば、なるほど愛人かなと思う。さて、ドロストのバテシバのモデルはどのような人だったのだろう?
きりがないので、これで擱筆するが、ルーヴル展は期待以上の内容だった。6月まで開催しているようなので、あと少なくとも1回は足を運ぶかもしれない。
国立西洋美術館で開催中の「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」を観て来た。チケットやカタログの表紙を飾るのはフェルメールの「レースを編む女」。フェルメールは寡作で知られる作家で、ルーヴルといえども2点しか収蔵していない。そのうちの1点を今回日本へよこしたのだから、そのことだけでもいかに日本の美術シーンを重要視しているかということがわかるだろう。そして、実際に会場に足を踏み入れれば、よくもこれほどの作品を貸し出してくれたものだと感心ししてしまうほどだ。
ル・ナン兄弟「農民の家族」は、本物の農民の生活をモデルにしながらも、それがあたかも別世界のものであるかのように止揚されている。おそらく実物よりはるかに清潔に人物や室内を描き、その表情に強さを与え、聖性を感じさせる光をあてることで、日常を描いているように見せながら日常を超越した世界を描いているように見える。このような作品を観ると、何故か心が洗われるような心地よさを感じてしまう。アドリアーン・コールテは日本では馴染みがないかもしれないが本展に出品されている「5つの貝殻」だけでも入場料を払って観る価値があると思う。実は、昨年の夏にルーヴルを訪れたときは、この作品は全く印象に残らなかった。ルーヴルではリシュリュウ翼の2階(日本式に数えれば3階)、エスカレーターを上がったところからオランダ・フランドルの17世紀絵画の展示が始まり、そこから見学を始めているので、観たとすれば、まだ疲労も始まっていない時間に観ているはずだ。ところが、今回、この作品を前にして、初めて対面するような心持ちがした。もったいないことをしたものだと思うと同時に、今こうして観ることができて本当によかったとも思う。
ジョルジュ・ラ・トゥール「大工ヨセフ」もいい。2005年に東京で「ラ・トゥール展」が開催されたときにも来日している作品なのかもしれないが、当時はまだ、絵画にそれほど興味がなかった。ましてや17世紀の絵画など関心の外だった。もちろんルーヴルにはまとまった数のラ・トゥールの作品が展示されており、自分にとっては「いかさま師」の存在感が圧倒的なものに感じられた。作品の大きさと配置の関係もあるのだが、やはり中央に座っている女性の目に射すくめられてしまう。ラ・トゥールの作品は人物の目に特徴があるように思う。「大工ヨセフ」でもヨセフの目が印象的だ。
ウィレム・ドロストの「バテシバ」にも目が離せない。尤も、目が離せないのは作品そのものというよりも、バテシバの美しい乳房かもしれない。同じモチーフでドロストの師であるレンブラントが描いた作品がルーヴルにある。こちらは裸婦像だが、個人的にはドロストの作品のほうが好きだ。それは、ドロストのバテシバのほうが美しいから。レンブラントのほうのバテシバのモデルはレンブラントの女中から後に愛人になったと言われる人物だそうだ。男女の関係は恋人、愛人、配偶者と様々だが、同じ相手で一連の関係を経験することもあれば、相手と関係性が固定されている場合もある。それぞれに相手に対する視線が違うのが一般的だろう。レンブラントのバテシバは、言われてみれば、なるほど愛人かなと思う。さて、ドロストのバテシバのモデルはどのような人だったのだろう?
きりがないので、これで擱筆するが、ルーヴル展は期待以上の内容だった。6月まで開催しているようなので、あと少なくとも1回は足を運ぶかもしれない。