熊本熊的日常

日常生活についての雑記

自動車社会の未来

2009年03月19日 | Weblog
宇沢弘文の「自動車の社会的費用」が出版されたのは1974年だそうだ。あまりに有名な著作だが、私は読んでいない。それでも学生時代にエコロジー系サークルに籍を置いていたのだから、いい加減な人間の典型と言われそうだ。

昨日から今日にかけて、休暇を取って両親と伊豆へ旅行にでかけてきた。私も含めて皆年寄なので、歩行距離が少なくて済むように、レンタカーを使って東京と伊豆とを往復した。春の行楽シーズンとは言え平日の昼間なので、東京以外の道路は概ね順調だったが、都内の渋滞は景気とはあまり関係が無いように見えるほどひどいものだった。

渋滞は、勿論、事故や故障車、あるいは工事などが原因になることも少なくないだろうが、今回は事故渋滞にはまったのは伊豆に入ってからの1回だけで、都内での渋滞は悉く自然渋滞だった。首都高なら環状線への合流地点が渋滞の起点になっていることが殆どで、一般道も幹線道路どうしの交差点が起点になっていることが多かった。

自然に渋滞が発生するというのは、要するに道路の容量を超過した交通量が存在するということであろう。国内新車販売台数は登録車合計で1月が前年同月比27.9%減、2月は同32.4%減と、これまで聞いたことがないほどの落ち込みを示している。新車の販売数量が減少しているということと、自動車の交通量が減少するということは同義ではないが、少しくらい新車需要が減少しても、都内の交通量は道路の容量に対してなおも過剰であるということだろう。そもそも、景気の変動で3割も新車需要が変動するということは、需要そのものが不要不急なものをかなり含んでいるということでもある。

自動車産業は裾野が広く、しかも各部品や材料に高度な信頼性が要求される。それだけに、自動車産業の競争力は、その経済全体の工業力水準と密接に連動する。しかし経済の成熟化に伴い、その在り方も変化が求められるのは当然のことだろう。ひとりひとりが少しずつ不便を甘受することで、社会全体が暮らしやすくなるのかどうかはわからないが、国力の低下と高齢化の進展のなかで、少なくとも不便を甘受する覚悟はしておいたほうがよいかもしれない。