当り前だと思っていることの多くは、思いの外、当り前ではない。結婚式を舞台にした作品は数多いが、そこに人々の幸福そうな笑顔とか、高揚した雰囲気といったものが殆ど見られない作品というのは珍しいのではないだろうか。結婚式がおめでたいというのはオメデタイ人にとっての当り前なのかもしれない。
印象的な場面はたくさんあるのだが、例えば、帰省した長男のロシア人の妻が結婚披露宴の準備を手伝っているシーンがある。彼女はトマトを切っている。ごく当り前にサラダに添えられているように、半月型に切っている。それを、やはり手伝いをしている近所の女性たちが嘲笑する。「あの人はトマトの切り方も知らない」と。その地方ではトマトは賽の目に切るのが正解だ。果たしてトマトに「正しい」切り方というものがあるのだろうか?当り前の切り方というものがあるのだろうか?
そんな些細なことから、イスラムの教えや習慣、家族のしきたり、お役所仕事の決まり事、その他様々な「当り前」が作品のなかに溢れている。自分の「当り前」は必ずしも他人の「当り前」と一致するわけではない。そこに対立が生まれ、憎悪に発展することだってある。
当り前に流されているというのは、自分で考えていないということだ。考えの無いところに対立や紛争が生じ、無知無思考の度合いが深刻であるほど対立は激しさを増すように思う。
タイトルは「花嫁」だが、主役はその姉である。慣習に従って親が決めた相手と結婚したものの、夫との関係は破綻し、子供たちが成長して手がかからなくなった今、大学に入学して福祉の勉強を始めようとしている。こう書くと、日本人の目には何も変哲がないように見える。しかし、妻はひたすら家庭を守る、ということが当り前の社会では、途方も無い挑戦的な行為なのである。
そしてやはり写真でしか顔を知らない相手と結婚する花嫁は、結婚式に臨むために国境を越えようとしている。ウエディングドレスに身を包み、周囲に流されるように花婿が待つ国境までやってきたが、国境越えの事務手続きの不手際で待たされている間に、おそらく、いろいろなことを考えたのだろう。国境越えの手続きで周囲が右往左往しているなか、彼女は立ち上がり、花婿が待つ国境の向こう側へ向かって毅然として歩き出すのである。自分の人生の何事かを決断した、その後ろ姿が美しい。
印象的な場面はたくさんあるのだが、例えば、帰省した長男のロシア人の妻が結婚披露宴の準備を手伝っているシーンがある。彼女はトマトを切っている。ごく当り前にサラダに添えられているように、半月型に切っている。それを、やはり手伝いをしている近所の女性たちが嘲笑する。「あの人はトマトの切り方も知らない」と。その地方ではトマトは賽の目に切るのが正解だ。果たしてトマトに「正しい」切り方というものがあるのだろうか?当り前の切り方というものがあるのだろうか?
そんな些細なことから、イスラムの教えや習慣、家族のしきたり、お役所仕事の決まり事、その他様々な「当り前」が作品のなかに溢れている。自分の「当り前」は必ずしも他人の「当り前」と一致するわけではない。そこに対立が生まれ、憎悪に発展することだってある。
当り前に流されているというのは、自分で考えていないということだ。考えの無いところに対立や紛争が生じ、無知無思考の度合いが深刻であるほど対立は激しさを増すように思う。
タイトルは「花嫁」だが、主役はその姉である。慣習に従って親が決めた相手と結婚したものの、夫との関係は破綻し、子供たちが成長して手がかからなくなった今、大学に入学して福祉の勉強を始めようとしている。こう書くと、日本人の目には何も変哲がないように見える。しかし、妻はひたすら家庭を守る、ということが当り前の社会では、途方も無い挑戦的な行為なのである。
そしてやはり写真でしか顔を知らない相手と結婚する花嫁は、結婚式に臨むために国境を越えようとしている。ウエディングドレスに身を包み、周囲に流されるように花婿が待つ国境までやってきたが、国境越えの事務手続きの不手際で待たされている間に、おそらく、いろいろなことを考えたのだろう。国境越えの手続きで周囲が右往左往しているなか、彼女は立ち上がり、花婿が待つ国境の向こう側へ向かって毅然として歩き出すのである。自分の人生の何事かを決断した、その後ろ姿が美しい。