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熊本熊的日常

日常生活についての雑記

世知辛い

2017年08月02日 | Weblog

午前中、実家の母から電話があり、身に覚えのない荷物が送られてきたという。気持ちが悪いので警察に届けて、警官に来てもらっているというのである。とりあえず、荷物のことは警察のほうでいろいろ確認してもらっているようなので、身支度をして様子を見に出かけてきた。

実家に行ってみると、既に警官は一通りの手続きを終えて連絡先を残して署へ戻った後だった。荷物はエフエム東京からだ。住所はFM局のもので、包装から透けて見える中身はネスプレッソのようだった。たまたま最近、母の友人が身に覚えのない荷物を送りつけられて、開封したら請求書が入っていて連絡したら送金を要求されたということがあった。それで母は警戒して警察に連絡したのだという。送り主が実在する放送局であれ、身に覚えのないことには違いないので、警察から配送を担当した運送業社に連絡して引き取りに来てもらうことにしたという。警察の連絡先も荷物の返送手配もはっきりしていたので、私も家に引き上げた。

後になって、再び母から電話が来た。荷物は甥の娘(私から見れば従兄弟の娘)がラジオ番組に投稿したものが採用された副賞で、投稿の内容に登場した母へのプレゼントだった。甥の娘が副賞のことを失念していて母に連絡をし損なったらしい。警察沙汰にまでなったが一件落着だ。

それにしても、母はもとより、警察も私も「エフエム東京」から荷物が送られてくることを「事件」だと認識したことが面白い。たぶん、昭和の頃なら、身に覚えがなくても素直に喜んで受け取ったのではないだろうか。手元の携帯端末であらゆることが瞬時に処理される時代であり、そうしたなかで運送業社のように現場で手足となる分野での過重勤務が問題になっている時勢だ。物事がデータ化されるということは、他者と直接関わることなく生活ができてしまうということでもある。他人と関わらないということは、逆に誰からでもアプローチされ得るということでもある。そういう側面を悪用した事件事故は現に起こっている。そういう事件事故が当たり前のように起こると、身に覚えのないことはとりあえず「事件」として疑うことになってしまう。そもそも社会というものは人の善意や人をとりあえず信じるということを抜きには成り立たない。金銭が紙切れではなく有価物として扱われるのはその典型的な事例だ。勿論、精巧な印刷技術によって偽造を予防しているが、紙切れであることは間違いない。紙切れを有難がって懐に入れるのは、素朴に印刷技術と「日本銀行」を信頼しているからだ。郵便ポストに郵便物を投函するのは、それが相手に届くと信じているからであり、銀行に預金をするのは銀行を信頼しているからだ。マスメディアの報道は「事実」だと思っている人が圧倒的に多いだろうし、医者の診断は正しいと信じないわけにはいかないことが多い。信じないことには物事が前に進まない世の中を作ってきたのである。ところが、そうした信頼を裏切る事件や犯罪が近頃は当たり前になってきた。世知辛い世の中になったものだ。