熊本熊的日常

日常生活についての雑記

手加減

2017年08月05日 | Weblog

午前中から昼過ぎにかけて陶芸。先週挽いた小型の蓋付容器の削り。蓋と実の関係は口径を合わせること以外は考えなかった。今の自分の技量では口径を合わせるのが精一杯で、それ以上の細工など無理なのである。なんとか見た目はそれらしくなったが、もう少しなんとかしたい。こういうときに、自分の工房とか窯を持って思い存分に仕事をしてみたいと思う。

14時過ぎに陶芸教室を出て日本民藝館に向かう。妻と駒場東大前駅のホームで15時半に待ち合わせだ。途中、渋谷の銀座線のりば近くにある神戸屋で遅めの昼飯をいただく。昔は神戸屋のパンが旨いと思ったものだ。店舗によって多少の味のばらつきはあるのかもしれないが、何年かぶりにサンドイッチをいただいたら、期待が高かった所為もあるのだろうが、派手に空振りをしたようなしょんぼりした気分になった。

今日は18時から民藝館で講演会を聴く予定で、それまでに時間に余裕があったので近くにある日本近代文学館に足を伸ばした。文学館どころか駒場公園を訪れるのが初めてだ。東京にはまとまった緑地が多いと思う。旧前田侯爵邸は洋館のほうが改修工事中で、公園内は工事現場風だが、それでも高い木々に囲まれた園内は贅沢な空間だ。文学館は良い塩梅に時代が付いている。開館から50年目を迎えたそうだ。開館当時の館内外の写真が飾られている。今となっては古典の作家だと思っていた人たちが写真に収まっているのを見て、本当に生きていた人たちなのだと妙な驚きを感じる。50年という時間はそういう長さなのだということだ。自分はそういう長さをとっくに超える時間を生きている。古い知人が久しぶりに私を見たら、妙に驚いたりするのだろうか。

民藝館は色絵の器の特集だ。先月、娘と観に来た。何度見てもよい。色絵の器は自分では作ろうとは思わないし、手元に置きたいとも思わない。自分の生活空間を考えたときに、色絵の器が入り込む場面というものが想像できないのである。色絵というのは基本的には鑑賞対象のような気がする。色絵の大皿に河豚刺しが敷き詰められていたら旨そうだが、河豚刺しが日常の風景であるような生活を私は送っていないし、送りたいとも思わない。「ハレとケ」という言葉があるが、色絵はハレの道具だと思う。それにしても、自分の「ハレ」に色絵は想像できない。相性が良くないようだ。いつ死んでも不思議ではない年齢まで生きてみて、ようやく自分の暮らしというものをあれこれ思い描くことができるようになってきた。それでは手遅れかというと、そうとも思わない。薄みっともなく右往左往している老人が目につくが、ああはなりたくないと思えるだけでもマシではないかと自惚れている。尤も、他人様を事情もわからずにあれこれ評するのもみっともないことだと思うのだが。

講演会は面白かった。装飾技法の歴史として白地に筆で絵付けをするということの位置付けがいまひとつ明瞭にはなっていないということが興味深い。そもそも、何故道具に装飾を施すのか、ということが単純に説明できるようなことではない気がする。毎度毎度同じことになってしまうのだが、要するに「私」の問題に行き着くと思うのである。装飾文様や図案の意味、装飾することの意味、見ること見られることの意味、自他の区別、考え始めたら際限がない。

民藝館の講演会を聴いた後は、駅前の駒鉄で食事をして帰るのが習慣になっている。この店では「つけめん」を食べるものだというのが妻との共通した見解で、今日も妻は「つけめん」を注文した。私は敢えて「冷やし中華」を注文した。夏は冷やし中華だ。