熊本熊的日常

日常生活についての雑記

雨足の緩急を縫うように

2017年08月15日 | Weblog

午前中、激しい雨が降っていた。窓から外を眺めると住居の前の道が短時間であるがちょっとした川のようになっていた。それでも雲の動きが早く、ネットで雨雲の様子を見ても激しい雨は一時的であるように思われたので、午後になって雨足が弱まったところで根津美術館へ行くことにした。

根津美では陶磁器の企画展が開催されていた。特に用途を限って作られるわけではないが、なんとなく鑑賞陶磁器と実用陶磁器との区別があるように思う。今回の展示は後者を取り上げている。キャプションを読んで初めて知ったのだが、大皿が使われるようになったのはそれほど古い時代のことではないらしい。大皿が使われるのは宴会のときであり、宴会が催されるのはそれを可能にするだけの富の蓄積があり、なおかつ宴会という無防備な空間を設けるだけの社会の安定が必要なのである。言われてみれば当然なのだが、迂闊にもそんなことを考えたこともなかった。展示品は約半分が中国の古いものだが、それらが日本に渡って使われたのは近世以降なのだろう。日本で作られたものは17世紀から19世紀、江戸時代のものだ。

そういえば、食事の形態というのは文化によって様々であり、そうした違いをテーマにした民族学/民俗学の展示や書物を見たことがある。また、人間は集団で食事をするが人間以外の霊長類は孤食であるというようなことも耳にしたことがある。人間の場合は食事がコミュニケーションの場であったりツールであったりするという事情もあるだろうし、調理をする関係上、人数分をまとめたほうが都合が良いということもあるのだろう。逆に言えば、コミュニケーションの対象がなく、調理をしないのであれば、食事のスタイルはどうでもよいということにもなる。

ざっくりとした言い方をすれば、人間の社会では人と人との交渉が価値を産む。食事は単に腹を満たすというだけの行為ではなく、食卓を囲んでの会話から何事かが産まれる場でもある。何が産まれるのか、何を産もうとしているのか、というようなことはそこで使われる食器類や料理からも推測ができるのかもしれない。自分が茶碗や皿を作るとき、何を盛るのに使うかということは当然に考えるのだが、それがどのような食事の席で使われるのかというような深いところまでは考えたことがなかった。これからは、例えば茶碗を作るにしても、誰が誰とどのような会話をしながら食事をするときに使うのか、というようなそのモノを巡る関係性に想いを馳せながら作ってみたら別の面白さを感じるかもしれない。

根津美からの帰り道、妻がヨックモックのカフェで何か食べたいというので立ち寄ってみる。平日の雨の昼間、さすがに待つことなく入店できた。二人ともブリュレ風パンケーキとアッサムティーをいただく。この店のシガールは頂き物で食べることがあるが、カフェに入ったのは初めてかもしれない。よく週末にこの店の前を通ると入店待ちの人が並んでいたりするが、並ぶ人の事情は想像がつかない。たいへん結構な店だと思う。でも、並んでまで食べたいものがあるとも思えないし、そこまで何かに執着するという事情も自分たちにはない。