熊本熊的日常

日常生活についての雑記

鞆の浦

2017年08月24日 | Weblog

朝日は海の向こうからやってきた。宿の部屋は海に面しており、目の前に朝日が昇る。絶景だ。鞆の浦の宿には朝食と夕食をつけて二泊申し込んだ。昨日の夕食は豪華だったが、朝食もたいしたものだ。普段、朝はコーヒーと果物くらいしかいただかないので品数が多いというだけでもびっくりしてしまうのに、丁寧に調理されたと思しきしっかりした味があると、その日はもうそれだけで夜まで満腹するのではないかと食べたときは思う。

ところで、日本の有名な祭りのひとつに祇園祭というものがある。なかでも京都のものが代表格だが、京都は八坂神社の祭礼だ。八坂神社のウエッブサイトにその概要が記されている。

八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
(京都八坂神社ウエッブサイト) 

そのルーツが鞆の浦という説もあるらしい。昨日このブログに書いた今は同じ福山市内である上戸手の素盞嗚神社の界隈もここ鞆の浦もほとんどの民家の軒先に茅の輪があり、なかにはそれとともに鰯の頭と柊の小枝がぶら下がっている家もある。これは京都八坂神社のサイトで解説されている護符に当たる。それにしても、そうしたものがいまだに当たり前の風景として見られることに驚いてしまう。

鞆の浦の宿の近くに沼名前神社(ぬまくまじんじゃ)の大きな石の標識がある。その石標の彼方に立派そうな神社が見える。この神社は古地図や古い絵図では「祇園社」と記されている。つまり、ここも素戔嗚、蘇民将来、牛頭天王といった神話の世界と関連しているということだ。この神社は祇園社以外にも海上安全の信仰対象である大綿津見命を祀っている。ちょっと面白いのは数ある鳥居のなかに笠木の端が参道沿いの民家のベランダの手すりを突き破っているものがあったり、鳥衾形という珍しい形態の鳥居があることだ。また、社務所の脇に英語の銘板がついた小さな砲がある。古い軍艦に搭載されていたのではないかと思われるが、その由来については何の説明も付されていない。

沼名前神社の近くに安国寺がある。久しく足利尊氏が建立したとされていたそうだが、1949年に行われた仏像修理の際に本尊の阿弥陀三尊像の胎内から発見された血書により、少なくとも鎌倉時代以前の寺であることがわかったそうだ。現在は釈迦堂と枯山水庭園が公開されている。この枯山水庭園の修復を担当したのは重森三玲で、安国寺のチラシに「安国寺本堂庭園」という復元についての解説を寄せている。

安国寺から沼名前神社の参道に戻り、鞆の津ミュージアムのカフェで一服する。ミュージアムのほうは休館だが、カフェは営業している。今日も暑く、外を少し歩き回っただけで大汗をかいてしまった。なにはともあれアイスコーヒーをいただく。一口飲んで驚いた。アイスコーヒーをきちんと淹れている。ホットのほうはそれなりでも、アイスのほうは出来合いのものだったり、ホットで落としたものを単純に冷やしただけというような店が多いのだが、アイスをアイスとして落としているのである。世に能書きばかりでたいしたことのない店が多いが、こういう寡黙できっちりした仕事に出会うととても嬉しい。

一服したところで鞆城跡にある鞆の浦歴史民俗資料館を訪れる。城跡の高台からは鞆の浦が一望できる。ちょうど鞆港で雁木の補修工事が行われており、広範囲に囲いが設置されて中に重機が入っている。風景としてその工事と呼応するかのように資料館直下の民家の修復作業が行われている。長年空き家だったようで、人が住んでいないことによる傷みが感じられる。夏休みの時期の観光地ということでそれなり賑わっているようには見えるが、今や日本中どこでも当たり前に見られる空き家問題についてはここも例外ではなさそうだ。

民俗資料館の展示は祭礼、漁業、潮待ち、朝鮮通信使、保命酒、宮城道雄などについての解説となっている。ちょうど馬出しという男の子の健やかな成長を祈る行事を目前に控えている所為もあるのか、たまたまそうなのか、展示の最初のほうは馬出し関連だ。航海における潮待ちが鞆のかつての発展と密接な関連があり、航海術の発達で潮待ちが不要になることで鞆の浦の存在感も薄れていく。今から振り返れば、景気の良かったときに次の時代へ向けての準備や投資をしておくべきだったと言えるが、人の発想が経験に基づく限り、未だ見ぬ時代への準備などできるものではないだろう。他人事というのはあれこれ気楽に評論できるが己のことというのは様々な選択肢があればあるほど容易に判断を下すことができないものだと思う。喧しく能書きを垂れるのは思慮浅薄の証左であり、真摯に生きる人というのは肝心なことほど寡黙に淡々と取り組むものだと思う。近頃は何かと喧しいが、それだけ時代として浅薄な世の中になっているということなのだろう。

鞆城跡の高台から急な階段を下って駐車場を突っ切り、昨日とは別の保命酒の店を訪ねる。ここでも試飲をさせていただくが、昨日の店の保命酒に比べるとすっきりとした感じ。昨日の店でも保命酒や味醂を買ったが、ここでも店の人の熱意に打たれて同じような組み合わせで購入。酒はあまり嗜まないのだが、なぜか出かけた先で酒類を買うことが多くなったような気がする。

薬用酒の試飲で少し元気が出たところで鞆の浦の象徴のような對潮楼に向かう。その昔、朝鮮通信使の一行がここを常宿のようにしていたそうで、確かに海に面した窓からの眺望が良い。ここは真言宗の寺で海岸山福禅寺といい、對潮楼は寺の客殿だそうだ。御本尊は千手観音だが、隠れキリシタンの観音像もある。一見したところは観音様だが観音像が納められている厨子の裏に黒い十字架がある。マリア観音像が仏像に混ざって本堂に並んでいる事情は知らないが、神仏を拝む気持ちを大事と考えて弾圧を受けていたキリシタンを匿ったのではないだろうか。日本の宗教施設や儀式というのは個々の宗教から見ればかなり土着化変容著しいらしいが、神仏習合の理屈の話ではなく、神仏を拝む気持ちを尊重する風土があったということではないだろうか。

昼時ということで、昨日訪れた地蔵院の近くの飯屋へ行く。ちょっと見たところ営業しているのかいないのかわかりにくいのだが、ちょうど2人連れの男性客が中に入っていくところで、続いて中に入り入り口近くのカウンター席に座る。カウンターの中では女性が3人立ち働いている。妻は刺身定食、私は小魚定食をいただく。地魚のようだが、これほど小さいとおろすのが却って手間ではないかと思われるような小魚を煮たり焼いたりしたものが並んでいる。刺身は鯛と鮪だ。

以前、みんぱく友の会の体験セミナーで九州北部を訪れたときに土地の料理の味付けが甘いと感じたのだが、ここ鞆の浦も味付けが同じように甘い。みんぱくセミナー以前にも醤油の味比べの会に参加したときに九州の醤油が甘いということを聞いた。九州の甘さは大陸から砂糖が日本に伝わった際の伝播ルートと関係があるらしい。一般的な呼称なのかどうか知らないが「シュガーロード」というものを想定すると、それは大陸と九州を結ぶ交易と深く繋がっている。大陸との交易は潮待ちの港として栄えた鞆の浦にも当てはまることである。魏志倭人伝にあるという「投馬国」は鞆のことではないかという説もあるらしい。そこまで遡らなくても、江戸時代の鎖国中に行き来のあった数少ない外国が朝鮮半島を含む中国大陸で、朝鮮通信使が瀬戸内海の航路を利用してここにも何度も訪れている。先ほど書いたように、福禅寺で海の景色を愛で旅の疲れを癒していたというのである。ここもシュガーロード上に位置すると言えるだろう。確かに、かなり最近まで砂糖は贅沢品で、それを使った料理や菓子もたいへんなご馳走だった。よく戦争映画で特攻隊員が出撃間近になると親が配給券を貯めて確保した砂糖でおはぎをこしらえて面会に来るというシーンがある。甘さというのは豊かさの象徴なのかもしれない。だから人をもてなすときの料理は甘い味付けにする、と考えることもできるだろう。

腹が膨らんだところで港のほうへ歩く。太田家住宅というものがある。中が公開されているが入場料をとられる。ボランティアのガイドが何人か常駐していてこの家のことを熱く語ってくれる。この家はそもそも中村家のものだった。中村家は鞆の人ではなく大阪から移り住んだ人が興した家で、漢方の知識が豊かな人だったとのこと。鞆の名物となっている保命酒を考案した人でもあり、中村家住宅は醸造所でもある。江戸時代には中村家が独占的に保命酒を製造して藩に納めたいそう繁盛したらしいが、維新で藩がなくなるとそこに依存していた中村家も危ないことになり醸造業は廃業、屋敷は太田家に譲渡されることになったそうだ。保命酒というのは、ざっくり言ってしまえば、味醂に漢方薬を加えたものだ。味も評価されたというが、滋養強壮剤としても高い評価を受け福山だけでなく全国へ流通したそうだ。後年、石見銀山を調査した際に坑道から保命酒の空き瓶が多数発見されていて、坑夫の活力源のひとつとして利用されていたことがわかったという。それほどのものなので、中村家から漏れ伝えられた製法やそれに対する工夫などを加え明治になって多数の保命酒醸造家が現れ、現在は4軒が残っているというわけだ。

市営の渡し船で仙酔島へ渡ってみる。昨日、福山の駅前にある百貨店のレストラン階にある豆腐料理の店で昼飯をいただいたとき、給仕の人から何もないけれどただ歩くのがなんとも言えなく良いという話を伺った島だ。仙人が酔うほど美しいのでこの名前になったとも言われているらしい。暑いこともあり、体力の限界もあり、30分ほど遊歩道を歩いてから海水浴場の売店でソフトクリームをいただいて鞆の浦へ戻ってしまった。

鞆の浦にはシーボルトも訪れた。鞆港を一望できる高台に医王寺という真言宗の寺院がある。シーボルトはここを訪れ、さらにこの寺の裏手の山道を登って植物の観察をしたらしい。シーボルトの日記には、この街の様子がたいそう気に入ったかのような記述が残されているのだそうだ。この寺に至る急な坂道の途中に民家をギャラリー・カフェに改装した店がある。看板には営業中とあったので、中に入ってみたのだが、いくら声をかけてみても誰も出てくる様子がなかったので、仕方なくそのまま宿へ向かう。

これまで通っていなかった鞆城跡の西側を通っていく。古い寺が並び、それが午前中に出かけた沼名前神社や安国寺につながっている。一日中炎天下を歩いてずいぶん疲れたので、宿に戻っても部屋に直行せず、ラウンジでレモンスカッシュをいただいて一服する。