新宿で高畑勲と奈良美智の対談を聴く。
奈良美智が描く少女が東日本大震災を契機に正面を向くようになったという話が興味深かった。そもそも彼が描く少女は描き手である彼の仮面であって、仮面をかぶることによって自己を解放しているのかもしれないとのことだ。世に仮面を被るという行為は遊園地の着ぐるみから能面に至るまでいろいろあるし、世界に目を向けてみても仮面を被って行う儀式はいくらもある。宗教的な意味合いのあるものなら、そこに神託の語り手という役割を与えるとか、現世ではない世界を現出させるとか、その儀式に関わる人々にとっての「真実」を描き出すツールや象徴になることがある。肖像を描くというのは自己主張という側面もあるということだろう。それで奈良の少女だが、震災を機に描くという行為に本腰を入れて取り組まないといけないのではないかとのシリアスな思いが強くなったそうだ。
「プロフィール」という言葉がある。人を紹介するときに略歴であるとか実績といったデータを羅列したものを指すことにもつか割れるが、もとの意味は「横顔」だ。横顔が客観的なものを象徴し、正面の姿が主観的なものを象徴すると言えるのかもしれない。人が他者と向き合うとき、相手に真正面を向くのかそうでないのか、相手の真正面を見るのかそうでないのか、というようなことから何を読み解くことができるのかを考えると面白い。
対談の最後のほうで東寺の両界曼荼羅図に描かれている大日如来がスクリーンに映されて正面性という話題に使われていた。たまたま先日手に入れた東寺の土産物で両界曼荼羅図の胎蔵界と金剛界を下敷にしたものを見たら、曼荼羅図に描かれている仏様たちは正面を向いているのもあればそうでないのもある。曼荼羅図は世界観の表現だが、描かれている個々の仏様の大きさや向きや位置を考えながら仔細に鑑賞したら、思いもよらぬ発見があるのかもしれない。老眼が酷くなる前に、曼荼羅図というものをじっくり鑑賞してみたいものだ。