終日家の中で過ごす。
根津美術館の入り口のところに金明竹が植えてある。昨日、それを見て落語の「金明竹」を思い出し、今日家にある小三治のDVDを引っ張り出して聴いてみた。DVDボックスに付いている小冊子も読んだ。小冊子は以前にも読んだが、以前のことなので、やはりかなり新鮮な想いで読み通した。
自分にとっては噺の世界は憧憬の対象だ。誰がいつ演っても、というわけではないが、聞いていて自分の心の落ち着きどころが見えてくる心持ちになることがたまにある。その「たまに」を求めて月に一度か二度でしかないが落語会に足を運んでいた時期もあった。過去3年ほどの記録はこのブログの4月1日付「一区切り」に書いた。その後は6月に娘と鈴本の昼席を聴いたきりで、落語にはすっかりご無沙汰だ。6月の鈴本は良かったが、だからといってまたちょいちょい足を運ぼうとも思わなくなってしまった。心が老化したということだろうか。それとも、、、
落語の不思議なところは同じ話なのに噺家によって、その時々によって同じに聞こえないことだ。サゲがわかっているのに笑ってしまったり泣いてしまったり、逆にまるで他人事のようでおもしろくもなんともなかったり。落語は話を聴くのではなく噺を聴いているということなのだろう。「話」と「噺」がどうちがうのか、ということは説明のしようがない。噺を楽しむのだからDVDだのネットの動画サイトだので何度も再生して聴くというのはダメなのである。ダメとわかっていても買ってしまったものがあり、ダメなら売っぱらっちまえばいいじゃないかと思うのだが、やっぱり手放せないのである。ああ、ダメだ。
「金明竹」はよく前座が演るが、なんだか滑舌訓練を聞かされているだけのことが多かったり、加賀屋佐吉の使いが外国人だったり妙な人だったり、そんなところを取り替えてどうすると思うようなものだったりすることもある。しかし、ちゃんとした噺家が演るとやっぱり面白い。こういうときはDVDを買っておいてよかったなと思う。それで「面白い」ってどういうことだろう?