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風の遊子(ゆうし)の楽がきノート

旅人を意味する遊子(ゆうし)のように、気ままに歩き、自己満足の域を出ない水彩画を描いたり、ちょっといい話を綴れたら・・・

楽書き雑記「名古屋の土木・産業遺産『堀川運河』を知る企画展」

2020-02-06 06:26:53 | 催し

名古屋城の築城と同時期に、名古屋の都心を貫く堀川運河が開設されて410年。
この土木・産業遺産を新しい街づくりの核にしよう、と取り組んでいる地元や大学、経済団体、行政組織らで構成する「堀川まちづくりの会」の企画展が、名古屋市民ギャラリー栄で開かれています。9日まで。

会場には物流の主役だった時代や、もう1本の運河である中川運河と直結するために造られた松重閘門の建設、運河の拡張・補強工事の歩み、地域住民の交通・交流の場でもあった橋などの資料を展示。
運河沿いのさまざまな風景、木曽で切り出された材木を山積みした貯木場、運河に浮かぶ筏に乗った筏師たちが手際よく働く様子・・・。これらの貴重な写真、地元画家・藤弘幸氏(一水会)の50号と100号の油彩画も並んでいます。

 

 


楽書き雑記「子どもたちがカメラで捉えた大人たちの『はたらくすがた』展=名古屋市民ギャラリーで開催中」

2020-02-05 06:29:25 | アート・文化


父や母、祖父母、そして地域のおっちゃん、おばちゃんらの働く姿を撮った第15回アイデム写真コンテスト「はたらくすがた」の入選作品を、名古屋市民ギャラリー栄で見てきました。
働く大人に対する子どもたちの感動や尊敬、カメラに収まった大人たちの仕事への自信と誇り。例年楽しみにしている写真展のひとつです。9日(日)まで。

総合人材サービス会社アイデムが主催、朝日小学生新聞、朝日中高生新聞などが後援するコンテストに全国から寄せられた作品は8274点。うち50点の入賞・入選作品や団体奨励賞を受けた3校の作品などが展示されています。

酪農家の祖母、コーヒーを入れる喫茶店のマスター、花屋さん、人形を作る職人、テレビ局のディレクター、地域を守る消防士、和箪笥職人、三味線奏者、紙芝居師・・・。さまざまな働く現場に出向き、子どもたちの目線で素直に捉えた写真が並びます。

スマホで撮影した写真や、撮影後に補正や加工した写真も増えてきたとか。先日見た愛知県内の高校生による写真展もそうでしたが、数年前に比べてモノクロが激減したようです。
しかし、働く大人たちを見る子どもたちの感動と、カメラを向ける子どもたちに対する大人たちの優しい眼差しに変わりはありません。

 

 


楽書き雑記「これらも暖冬の賜物?ミニバラ、マリーゴールド、カラスウリ」

2020-02-03 06:25:22 | 日記・エッセイ・コラム


2月というのに、名古屋の我が家では秋に咲き、年越しをした花がまだ枯れることなく残っています。
屋外で鉢植しているミニバラの4輪と、露地植えのマリーゴールド。これも暖冬と穏やかな天候の賜物でしょう。

ミニバラは植え替えた方がいいそうですが、我が家では2~3年おきに土を入れ替えるだけで10年以上同じ鉢で栽培。年末に剪定しますが、昨年末はまだ花が4輪残っていたのでその部分だけ剪定せずに残しておいたのです。

2014年にも1輪だけ残り、これは3月まで咲き続けました。
軒下で雨が当たらないこと、日陰なので活動が鈍いこと、それに今年はやはり天候でしょう。
3月並みの気温、強い風もほとんどない毎日。それに名古屋ではいまだに降雪が無く、すでに初雪が一番遅かった記録(1901年1月21日)を119年ぶりに更新しているのです。

露地植えで草丈が2mを超えるレモンマリーゴールドもクリスマス、正月を飾ってきました。さすがに花殻が目立つようになりましたが、暖冬の日差しを楽しんでいるようです。

散歩道ではカラスウリが目に留まりました。葉や蔓はほとんど枯れ、カラスウリも萎びて色あせていますが、数えると約20個も。鳥たちも暖冬で餌が豊富にあるのでカラスウリには見向きもしないのかもしれません。

 

 


楽描き水彩画「地下水を分け合う円筒分水槽」

2020-02-01 07:10:02 | アート・文化


山すその地下水を、農業用水として分け合うための分水槽です。
以前、南アルプス山麓の長野県伊那市の近郊で見かけた直径6mほどのこれは、横井清水水利組合が管理する円筒分水槽。稲作には欠かせない水をめぐる集落間の争いを避けようと、ひとりの偉人が明治中期に造り上げ、125年後の今も健在です。

水利組合のHPなどによると当時、水田を潤すため農民ら集落同士による水争いは深刻化する一方でした。
そこで大工や養蚕を営んでいた「御子柴艶三郎」という実業家が地下水を集めて地下トンネルで運び、みんなで分け合えるようにと取り組んだのが分水槽の建設でした。

工事は1895年(明治28年)に着手されましたが、水を流す地下トンネルづくりなど莫大な費用に。しかし、艶三郎は「実現できれば我が身は水神に差し上げる」と私財をなげうち5年ほどで完成、艶三郎は水神との約束通り自死したとされたと言われています。

伊那市だけでなく、山裾にあって地下水が豊かな地域では同様の分水槽は数多くあるようですが、「艶三郎の井」は先駆けだったと見られています。

艶三郎は水神宮に祀られ、地域では毎年4月に艶三郎を偲ぶ水神祭を催しています。
訪ねた時は水の需要期ではありませんでしたが、10号で描いた絵では需要期の水槽らしく水が流れ出ているようにしました。
水槽中央の地下水が上がってくる穴の壁面は黄緑色の水苔に覆われ、下の方から気泡が上がっています。