リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

インフルエンザの予防注射をして来た

2014年11月17日 | 日々の風の吹くまま
ここのところ連日起床は正午過ぎ。カレシは風邪が治って回復中、ワタシは「心のすきま風」
が去って充電中、というところ。居座っていた北極の高気圧がやっと東の方へ移動して、南
からの暖かな低気圧が入り込めそうな気圧配置。ずっとマイナスだった最低気温の予報も
プラス。ジェット気流がカナダの上で大きく蛇行するせいで、ロッキー山脈の西が暖かいと
東部の方では寒波、東部が暖かいと西岸が寒波になって、その間のまっ平らなプレーリー
はガチガチの厳寒。まあ、国土の面積が998万平方キロもあって、5千キロ近く広がってい
るもので、気圧配置もかなり大雑把。

今日はカレシの風邪で延期していたインフルエンザの予防注射をしにモールまで。薬局で
注射の資格を持つ薬剤師にしてもらえるようになって便利。クリップボードに挟んで積んで
ある問診票に名前と住所、生年月日、医療保険番号を書いて、体調やアレルギー等の項
目にチェックを入れて、お願いしまぁ~す。今年の担当は目の覚めるような超美人の若い薬
剤師さん。シニアの私達は無料(有料なら2、3千円かな)で、1人ずつ、指先で位置を確か
めて、すっと刺して、すっと抜いて、「オッケー」。真っ赤なバンドエイドを貼って、「15分ほど
店内にいてくださいね」。外へ出てからショックや副作用でぶっ倒れたらタイヘンだものね。

その15分ほどを買い物で過ごす。4リットル入りの牛乳、冷凍濃縮オレンジジュース、量り
売りのひまわりの種とアーモンドスライスは朝食用。チーズやソーセージは寝酒のおつまみ
用。野菜を少々と、サムゲタンにするチキンを丸ごと1羽(1.5キロ)。毎年のように体調に
は変化がないから、そのままチェックアウト。車の方へ歩いていたら、救急車がけたたましく
サイレンを鳴らして駐車場に入って来た。「誰か、注射した後でぶっ倒れたのかな」とカレシ。
いや、ラジオで急に冷え込んだときは心筋梗塞が増えると言ってたよ。そこへ、救急車の後
を追うように消防車も到着。きっと心臓発作だ・・・。

インフルエンザは今年もA型のH3N2が主流だという話だけど、予防注射の効果が出るま
での約2週間、ウィルスに遭遇しませんように。あしたは高麗人参をたっぷり使ったサムゲ
タンで防御体制を増強しておこう。冬の朝には残ったスープと鶏肉にねぎをたくさん入れた
ほっかほかの「オカーユ」もいいよね。

☆「らしさ」の呪縛

2014年11月17日 | 日々の風の吹くまま
11月16日。ほんの短い間だったけど、日記ブログの方をちょっと留守がちにして、「気持の上での放浪の旅」をしてみた。この年になっても、知らずにストレスになっていたりすると些細なことで心が揺れることがある。半分引退したつもりでも半分はまだ現役なので、毎日英語、日本語の新聞を読んで回るんだけど、日本の大手新聞の記事に不気味なxenophobiaのトーンを感じるようになって、気が滅入って来ていた。前から「何にも伝えていないじゃないか」という感じはしていたけど、知的でやや左よりの教養人だと思っていた人までがねっとうよのようなことを口にするようになって、何となくぞっとするものを感じた。

日本で最初にエボラ熱騒動が起きたときの報道はかなりきな臭かった。最初は「40代の男性ジャーナリスト」だったのが、「カナダ国籍の日系人」、最後には「カナダ人男性」と変わって行った。ねっとうよが目の敵にするアメリカの有力新聞の記者だと言われているけど、それが正しければ日本生まれの日本人で、カナダ育ちのカナダ国籍。カナダのパスポートには「出生地」の記載があるから、ひと目で日本生まれだとわかる。それが、ノーベル賞受賞のように都合のいいときは外国籍でも「日本人、日本人」なのに、今回は「日本人ではない」と強調するように「日系人」、「カナダ人」で、エボラ熱報道のために行ったアフリカでは患者に触れなかったからそう申告したんだろうに、「(外国人が)嘘をついた」と言わんばかりの書き方だった。(陰性とわかった後は「未明」という変則的な時間にこっそり退院させて、幕引き。)

日本のメディアは読者にいったい何を知ってもらおうとしたのかな。有力な全国紙でさえこうなんだから、ネットのメディアのトーンは押して知るべしだけど、「不都合な真実」は知らせるべからずが日本のメディアの姿勢だとしたら、お隣の中国とどこが違うのかと思ってしまうし、(特に海外から)ちょっと批判的なことを言っただけで反日だ!と攻撃するねっとうよ族は、イスラム以外の存在は冒涜だ、殺せと喚く狂信者の蒙昧さとあまり変わらないように見える。だけど、日本人は新聞への信頼度が世界でも際立って高い国民なんだそうな。素直と言えば素直な国民なんだろうけど、裏を返せば世界でもきわめてマインドコントロールしやすい民族とも言えるかもしれない。まあ、(ブックマークを削除した)某新聞を毎日(信頼して)読んでいたら、知らないうちに排外的思考になっても不思議はないかな。

それにしても、日本はもうワタシが育った日本ではなくなってしまったのかと思うたびに、心の中でさざ波が立つのはどうしてだろう。日本へ行けば常にパスポートを所持していないと入管法違反で逮捕される「外国人」だけど、それを不満に思ったことはない。That’s thatなんだから。カナダでは地のままでいてもよそ者扱いも、差別も、排斥もされない。ここがワタシの国なんだから。でも、カナダ的にはごく普通のカナダ人のワタシも、日本的には自意識が強くて、空気を読めない自己中的な存在ということになるらしい。いや、日本にいた時からそうだったんだけど。でも、それが問題だったのなら、日本に籍さえない今はもう問題ではないはずなのに、何で・・・。

2人の1日が終わって、グラスを傾けながら話をしているうちに酔っ払って泣き上戸になってしまうワタシ(昔は楽しい酔っ払いだったのに)。どうして日本を離れて20年以上も経ってから、会ったこともない日本人に、日本人らしくない、日本人を捨てた外国かぶれ、日本人の恥だと糾弾されなければならなかったのか。その話になるとカレシもつらいのはわかっている。わかっていても、15年も答が見つからないから、蓋をしてある感情が溢れ出して来てしまう。いつも結局は答が見つからないままだったけど、それが「キミが日本人らしくないから恥ずかしいと言った連中の方がよっぽど日本人らしくなかった。やっとそれがわかった」と言うカレシのひと言で目からうろこが落ちたような気がした。

日本人らしさ。女らしさ。○○らしさ。日本ではどこを向いても○○らしく、○○らしく。地の果てまで行っても異文化に染まらないことを誇りとする人たちは、ほんとに日本人らしい日本人ということなんだろうな。だから、世界のどこにいても精神空間では日本で暮らせて、どれだけ長く日本を離れていても、浦島さんにはならないし、どんなに日本が変わっても気持がざわつくことがないんだろうな。すごいことだよね。いくら絶対にDNAが日本人でも、子供のときから何かと世間一般の「枠」からはみ出していたワタシにはできそうにない。「らしさ」というのは他人について「持っているはず」と思い込んでいる性質(ステレオタイプ)のことのように思えるから、ワタシにとって「らしさ」を求められるのは自分とは別の人格であることを要求さるようなもので、本能的に抵抗してしまうだろうと思う。「自分らしさ」だって、「自分」を肯定できていないから、「かくありたい姿」として探し求めるんじゃないかと思う。「らしさ」は人を縛る黒魔術なんだ。

この夏、北海道から駆けつけてくれた幼なじみと東京で積もる思い出話をしていて、やぶから棒に「あんた、日本を出て正解だったね。日本にいたら潰されてたわ」と言ったのを思い出すな。潰されていたかどうかはわからないけど、幸せではなかったかもしれない。別の友だちには「何度突き放されても、それでも母親を追いかける子供みたい」と言われたこともあって、そのときも同じようにもやもやしていたような気がする。ワタシのさびた日本語ではよく言い表せないけど、まさに「らしさ」の呪縛にかかって、本来の「自分」を疎かにして、自分自身が知らない「自分らしさ」をありもしないところで探していたのかもしれない。気持が落ち着いてやっとベッドに入って、カレシが言ってくれた。「キミには日本人が要求するようなJapanesenessはないかもしれないけど、日本はもうキミの国じゃないんだし、カナダはキミはカナダ人なんだからそのままでいいよって言ってるんだし、オレとしても今のままのキミでいてくれるのが一番うれしい」。ありがとうね。やっと呪縛が解けたような気がする。Let it goだよね、Let it go。