リタイア暮らしは風の吹くまま

働く奥さんからリタイアして、人生の新ステージで目指すは
遊びと学びがたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

旅の空から~ふるさとは健在なりき

2018年10月08日 | 日々の風の吹くまま
10月5日(金曜日)。釧路は晴れ。プリンスホテル最上階のレストランでバフェの朝ご飯。おおむねスクランブルエッグとウィンナーとクロワッサンとコーヒーだけど、大好きな太いフキがあったので小皿に山盛り。カレシも気に入って山盛り。料理が並ぶテーブルの隅に自分でゆでて作るラーメンがあったので、えっ朝ご飯にラーメン?とびっくり。大型台風が近づいているという話だけど、外はいい天気。寿子が迎えに来る前にちょっと岸壁の方を散歩。後部に小船がついている変わった船があったので、通りかかったおじさんに聞いたら、「イワシ漁の船だよ。今が盛りでさ」。へえ。刺身で食べられる?と聞いたら、「食べられるさぁ。うめぇんだから」。
   
   イワシ漁船

先住民同士の文化交流の話をしたらさっそくリサーチしてくれた寿子が10時に迎えに来て、今日は吹雪の中で遭難した「アイヌ逓送人吉良平治郎」が歩いた道を南大通郵便局から辿って、遭難記念碑まで。降りしきる雪の中で気の遠くなるような距離を不自由な体で郵便の重い荷物を背負って歩いたとは超人的としか言いようがない。碑が立っている丘の上からの風景はアイルランドの僻地ディングル半島を思い出させる。今年90歳になるというおじいちゃんが碑の回りに作った花壇の手入れをしていた。この地で雪に埋もれて遭難死した平治郎を慰めたくて、釧路市内から通って来て花を育てているんだそうな。ビニール袋に雨水をためる仕掛けを作り、鹿に荒らされないように花壇には網をかけ、自分は腰に熊よけの鈴を下げて、「好きでやってんだから」とにこにこ。

丘を降りて昆布森の浜へ。その名の通り、昔から昆布を生産して来たところで、新しい家と潰れそうな古い家が混じった小さな集落。懐かしい浜の匂いに引かれてウミウが群れている波打ち際へ。写真を撮っていたら、急に私たちの後ろから大きな波が這い上がって来て、ざぶん。故郷の海に足を洗ってもらった感じだね。いつか死んで遺灰を太平洋に流してもらったら、きっとこの浜にも流れ着くんだろうな。
   
   
   昆布森の浜

ランチの後、午後は寿子に連れられて道立釧路芸術館へ。寿子とともにギフトショップでボランティアをしている級友の由美子を驚かそうという趣向で、ほぼ60年も会っていなかったのに、目が合った瞬間に「あらぁっ」。ちょうど展示中だった脚本家倉本聰の点描画を見て行けと言われて中に入ったら、鳥肌が立つような作品がずらり。紹介されている脚本家としての考え方にもすっかり感動して、共鳴して、ギフトショップで作品集を買って、ああ、来てよかったぁ。
夜は(今はない)東栄小学校の「クラス会」。1年から6年まで一緒だった百合子、由美子、敬子、順子、保、寿子、そしてワタシ。みんなめでたく70歳。漁師の息子だった保は早朝から父親と漁に出て、学校ではよく居眠りをしていた。休み時間に先生に「朝から働いて眠いんだ。寝かしとけ」と言われて、そうっと廊下に出て遊んだ私たち。戦後の日本が貧乏だった時代、道東の霧深い最果ての地にはまだテレビもなかったから、身の回りだけが私たちの世界で、津軽海峡以南は社会科の教科書に出て来るどこか遠い国。あの頃は子供が子供らしく過ごせた幸せな時代だったのかもしれないな。

☆☆☆☆☆


10月6日(土曜日)。晴れ。台風25号が日本海側から接近中。9時半に寿子が迎えに来て、今日は「アイヌ逓送人吉良平治郎」の脚本家に会いに阿寒湖畔へ。「阿寒湖アイヌシアター運営評議会」事務局長の尾田氏がその人で、まずコタンを案内してくれて、床ヌブリという彫刻家が残した作品を見せてもらった。釧路の姉妹都市バーナビーの山の公園に作品があるとか。我が家からいつも見えている山。帰ったら見に行かなくちゃ。アイヌ料理でランチをして、アイヌシアター「イコロ」で古代舞踊を鑑賞。BC州の先住民の音楽とよく似たところがあるのは、遠い祖先のつながりかな。女性がお盆を奪い合うゲームを現した踊りでは、カレシが舞台に引っ張り出されて参加したはいいけど、見事にお盆を受け損ねて大笑い。最後は観客も参加しての輪舞。
   
   樹木の精霊が現れたような・・・(床ヌブリ作)

若い人たちが自分のアイデンティティに誇りを持てるようになったのは大きな進歩だと思う。ワタシにはアイヌ人の地は流れていないけど、縄文人の遺伝子が濃い方だと思っているからか、音楽も踊りのリズムもすぅ~っと心の奥に響いて来て、ワタシは「縄文系北海道人」なんだという自分なりのアイデンティティができたような実感を得られた気がする。単一民族を鼓舞する日本にだって独自の高い文化を持つ先住民族がいるってことをもっと世界に知らせたいね。そのためにもやっぱりすぱっとリタイアして文化交流プロジェクトにエネルギーを向けることにしよう。うん、新しい勉強が始まるぞ。
釧路へ帰る尾田氏と別れた後はちょっと阿寒湖畔の散策。昔ながらの温泉旅館がたくさん。うん、小学校の修学旅行は3泊の阿寒の旅だったな。6年生は8組か9組あったから、連なった観光バスもすごい数だったけど、今のように立派なバスじゃないから、座りっぱなしでお尻が痛かった。止まった旅館での騒ぎもすごい音量で、今さらだけど、ご迷惑をおかけしました。ボッケと呼ばれる泥火山を見に行ったけど、何か乾いて固まってしまって、昔のようにぼこっ、ぼこっと大きな泥のあぶくが見られないのが残念。でも、阿寒湖畔からの帰り道、丹頂鶴が刈り終わった牧草地で草を食んでいるのか、虫を食んでいるのか、あっちに2羽、こっちに3羽と見えて、写真を撮るために路肩のない車線に車を止めてちょっとした渋滞を起こしている札幌ナンバーの車。道路近くにいた鶴が何かに驚いたのか、そそくさと私たちの車の前の空を横切って飛んで行った。
   
   丹頂鶴が飛ぶ

旅の空から~冒険の始まり

2018年10月08日 | 日々の風の吹くまま
10月3日(水曜日/日本時間)。出発が遅れたので、定刻より1時間近く遅れて成田着。入管の外国パスポートのセクションは1時間はかかってしまいそうな長蛇の列。そこで機内でもらった「ファストレーン」用のクーポンを見せて通りかかった職員にそういうのがあるのかどうか聞いてみたら、ある。ファーストやビジネスクラスの外国人客だけがもらえるのものようで、案内されたのは誰も並んでいない窓口。おかげで入国管理はすいすいと進んで、遅れた時間を取り戻した感じ。すぐにバスの切符を買って、ソフトバンクのカウンターでSIMカードを入れ替えてもらって、お、鳴った。何かと幸先がいいねえ。

東京ステーションホテルについて、おなかがすかないのでそのまま銀行のカードを受け取りに行くことにして、勇んで総武線快速に乗ったら、ありゃ、どこかで人身事故があって、馬喰町でストップ。乗り換えや代替ラインのアナウンスは皆目見当がつかないし、いつ動くかわからないしで、外に出てタクシーを捕まえようとしたら、「空車」の表示をしているのに止まるそぶりも見せずに通過。何で?「外国人の方お断り」なのかな?それって差別でしょうが。オリンピック主催国がそれでいいのなかあ・・・。

何とか新小岩駅に着いて、迎えに来てもらって妹の家に到着。やれやれ。銀行のカードをもらって、カレシが疲れる前にホテルに帰るつもりで、駅まで送ってもらって、駅前の銀行で軍資金をどかっと引き出して、総武線各駅停車に飛び乗ったのはいいんだけど、お茶の水で停まったってことは東京駅には行かないってことじゃないの。慌てて次の水道橋で降りて、秋葉原駅で山手線に乗り換えて、やっとホテルにたどり着いて、ああ、くたびれたぁ。


東京ステーションホテルの部屋の窓から見た丸の内南口

10月4日(木曜日)。晴れ。朝食込みの宿泊なので、東京駅の中央部分の三角屋根の中にあるレストランで朝ご飯。ホテルは1915年開業当時の姿に復元したというだけあって、古き良き文明開化の香りといった感じでエレガント。だけど、部屋は少々オーバーデザインという感じで、トイレに入ってドアを閉めると自動的に蓋が空いたり水が流れたりで、えええ?という気分で何か落ち着かない。ま、長逗留にはちょっと向いていないかも。でも、朝ご飯のブッフェは良かった。特にシェフがアボカド半分にツナサラダとポーチドエッグを載せて、ホランデーズソースをかけて焼いてくれた「アボカドベネディクト」は絶世の味だった。

朝ご飯が済んだら、釧路に持って行かない荷物をまとめた大きいスーツケースを妹の家に預けに行って、ランチ。日本のデニーズはカナダのデニーズとは全く違って何倍もいいね。羽田まではタクシーとモノレールを乗り継ぎ。国内線の搭乗手続きは国際線のような緊張感がなくていい。襟裳岬の向こうに壮大な夕日が見えた。たんちょう釧路空港からはタクシー。運転手さんのこてこての釧路弁がまさに「ふるさとの訛り懐かし」。日本にはいつも「来る」という感覚だけど、北海道に来ると「帰って来た」と実感するワタシはやっぱり「北海道人」なのだ。

ホテルのロビーで小学校1年生からの大の仲良しのJ子が待っていてくれて、「あらぁ、げんきぃ~。うれしぃ~」と抱き合って飛び上がっての再会のあいさつ。荷物を置いてさっそくの夕ご飯はホテル裏の古くからある酒場。オーナーのおっちゃんと釧路の昔話をしながら食べた獲れたてのサバとさんまの刺身はおいしかったぁ~。あの人、この人と子供のころの記憶にある名前がポンポン飛び交って、あらぁ、あれぇの連発。昔の釧路っ子はみんなどこかでつながってたのかなあ。

おっちゃんに、住吉町の幣舞橋の見えるところで生まれて、米町で夜な夜な灯台の霧笛を聞いて、弁天浜で遊んで育ったのと言ったら、じゃあ、あんた、正真正銘の釧路っ子ってことだべ」。ああ、ふるさとは健在なりき・・・。