大谷村の外れに、その男が棲みついたのは、一年も前のことである。
何処から流れてきたのか、その素性を知るものはいなかった。
しかしながら、どうも、一癖のある凶状持ちのようであった。
男は、腰が落ちつくや否や、集落から離れた小高い傾斜地を勝手に耕し、自給自足用の猫の額ほどの田畑をこしらえ上げた。
そこは村の共有地とあって、それを見咎めた古老が男に掛け合うも、頑として聞く耳を持たず、そればかりか、逆に、鍬(くわ)でもって脅かしにかかったという。
寄り合いでその事が尋常じゃないと、庄屋はじめ世話役一同は、村に何事か起こる前に、束になって力づくで、おっ放り出そう、と相談がまとまった。
その強制執行が行われようとした当日の朝。
村のあちこちで、悲鳴とも嘆息ともつかぬ声があがった。
「おめんとこもか?・・・
おらんとこもだ・・・」
と、村人は顔を見合わせると、怒りとも悲しみともつかぬ顔で、ぐちゃぐちゃになった畑の作物を恨めしそうに見下ろしていた。
獣害だった。
それも、一匹や二匹という生易しい数ではなく、まるで、山中の獣の大群が押し寄せたかのような惨憺たる有り様だった。
「こんだな事は、はぁ、見たこともねえべな・・・」
と、百姓一筋に生きてきた古老たちも、その惨状を目にして、何か得体の知れない禍々しさを感じた。
突然の惨劇に、男の放逐決議は一旦棚上げにされ、害獣駆除が喫緊の死活問題となった。
庄屋は、隣村に棲むマタギ衆に掛け合い、米一俵で、七日の間、山狩りと害獣の駆除を依頼した。
マタギ衆は一種独特のいで立ちをした山の狩人である。
村の百姓たちとは明らかに風貌も異なり、どこか獣に同化したような野性味があった。
その主なる武器は、熊でも猪でも、たちどころに貫いてしまう「タテ」と呼ぶ長い柄を持つ槍であった。
「コナガイ」というのは、イタヤの木で作られた長く大きな櫂(かい)のようなヘラで、これは主にカモシカなどを撲殺するのに用いられた。
マタギ衆は、七日七晩というもの、それぞれが山野に散って、獣を駆るに精を出した。
その結果は、村の若者衆たちも獲物を山から引き上げるのに駆り出され、熊五頭、猪十頭、カモシカ三頭、他に食料にはならず山に放擲したという猿が十数匹…と、たいした仕事ぶりであった。
それぞれの獣は彼らによって解体され、「熊の胆」はクスリとなり、毛皮は鞣(なめ)して、けっこうな金になった。
猪肉は「山くじら」として村人たちに精の出る「喰い薬」として鍋で振る舞われた。
マタギ衆のおかげで、しばらく、村の作物は安泰であった。
ところが、しばらく日を置くと、また、あちら、こちらと食害が始まった。
そればかりか、長雨によって、ふだんは穏やかな川が氾濫し、村の半分ほどの田畑が水没し、壊滅的な被害を被った。
再び寄り合いがもたれ、獣害に天災と【泣きっ面に蜂】で、どうしたものか…と、喧々諤々なされたが、もはやマタギ衆に頼む米一俵の供出はままならず、それどころか、下手をすれば、村人から餓死者を出しかねなかった。
これといった打開策もなく、一同が疲れ果てた頃、ひとりの古老が
「こうも凶事が続くんは、村に邪(よこしま)なものが入り込んだから、村の気を乱したんでねぇか…」
と呟いた。
並み居る一同は互いに目を見合わせると、それぞれに黙考するように眉をひそめた。
そして、思い当たるのは、風来坊の凶状持ちであった。
度重なる獣害やら天災に惑わされ、彼奴(きゃつ)の放逐をすっかり忘れていたのである。
そう。
あいつは、おまんまに入った砂粒なんだ…と、その場に居合わせた誰の心にも、凶状持ちに対する怨嗟の念が焔(ほむら)のように立ち熾(おこ)った。
悪いことはたて続けに起こるものである。
【踏んだり蹴ったり】とは、その事をさす。
今度は、水の引いた後、日照りが数日か続き、なんと、どこからともなくウンカが湧いて出て、水害を免れた田んぼの稲が全滅したのだった。
どの田にも、害虫対策に菜種油を撒いていたはずなのに…。
その頃、ウンカの大発生により、飢饉が起こり、百万もの餓死者が出たことがあった。
こればかりは、人の力では如何ともしがたく、十六世紀初め頃は、「虫送り」という儀式が執り行われ、害虫の退散や鎮静を村社会で神仏に祈ったのである。
その後、一部の知恵者の発案で、油を水面に注ぎ、その油膜で虫を包んで動けないようにし、かつ、体側にある気門を塞いで窒息させるという「注油駆除」法が広く農村に広まった。
しかし、これは、村社会という共同体が漏れなく一斉にやらないと意味がない。
ある田んぼだけ、それをやらずに、それが元で害虫が発生したら、村全体の死活問題となるのである。
「奴の田んぼだッ‼」
と、目を血走らせたのが村長(むらおさ)だった。
やり処のない憤怒の念は、またたく間に村人の間に感染し、それらのクラスターは更なる集団ヒステリーとなり、それこそ《人間ウンカ》と化した村人たちは、手に鎌や鋤(すき)、包丁を携え、男の棲む小屋へと雪崩(なだれ)打った。
多勢に無勢で、いかな無頼漢でも、鋭い鋤・鎌を持った剛腕の百姓に取り囲まれては堪忍するよりなかった。
あっけなく、取り押さえられると、男は雁字搦(がんじがら)めに引っ括くられ、猿轡(さるぐつわ)まで噛まされた。
猫の額ほどの男の田畑は、怒りに我を忘れた村人たちに踏み荒らされ、ほんとうに油を撒かなかったのか…という検証すらなされなかった。
男は、棒っ杭を十字に縛ったものにイエス・キリストのように結わえ付けられた。
猿轡のまんま、頭には、獣の皮を縫い付けてこしらえた袋が被され、声を上げることもできなかった。
それでも、時折、くぐもった獣のような呻きを発した。
それは磔刑であると同時に、【贄】(にえ)でもあった。
天の気、地の気を鎮めるための供物なのである。
男は逃げられぬようにと、苦痛を与える刑罰の目的で、村の衆の憎しみを引き受けた木挽きによって、股下から両足を鋸(のこぎり)で切断された。
苦痛にもがいたのも数分たらずで、大量の出血により、男は身もだえながら、ほどなく絶命した。
それから、七日七晩、棒っ杭に十字に結わえられた男は、半身がなく、奇妙な姿で、泥田の真ん中に放置された。
血の臭いに引かれてか、山から下りてきた野犬たちが、いくらか傷口に噛り付いたようだったが、次第に腐臭が漂い始めると、彼らも次第に寄ってこなくなった。
そして、村人たちも、その悪臭に閉口して、そのまんま、油を襤褸(ぼろ)になった着物に浸み込ませて火をつけた。
たちどころに黒煙があがり、腐ったカラダは燃えても尚、悪臭と異臭をあたりに漂わせた。
ことに、爪や髪の毛が焦げて漂う臭いは、嘔吐を催すほど堪らないものだった。
男は、骨となっても、埋葬されることもなく晒されていた。
その後、どうしたことか、村に害獣の起こることはとんとなくなった。
そして、害獣を退けたのは、人間の爪や髪の毛の焦げた異臭・悪臭を獣たちが嫌ったからだ、と言い出すものがいた。
それからというもの、村では、散髪した髪や、切った爪を捨てずに取りおいて、年に一度、十字架に結わえた上半身のみの襤褸人形の足元で、それを焚いて獣払いの儀をする慣わしとなった。
あの男を焼いて「嗅がし」たのが奏功したので、その儀式は「かがし」と呼ばれた。
そして、いつしか、それは「かかし」という風習となった。
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