やっと、
四日間の東京出張も
今日の仕事で最後である。
それでも、
夕方の6時までみっちりあるので、
家に着くのは9時を過ぎるだろう。
疲れて寝落ちして、
仙台まで乗り越さないようにしないと。
でも、
ハードな四日間だったが、
みっちり勉強したし、
専門家どうしで
たくさんディスカッションして
久しぶりにアカデミックな
高揚感があった。
自分の勉強してきたことが
間違っていなかったことや
30年の心理臨床体験が
確実にサイコ・セラピストとしての
力になっていることに自信が持てた。
東京には大先生もいるので、
新しい知見も学べて
田舎心理屋にとっては
大いに得る処もあった。
3.11関連のエピソードも
関東の同業者に
真摯に聞いてもらえて
有難かった。
あ~。
やっと、うちに帰れて、
自分の寝床で寝れるのが、
いちばんの楽しみかも(笑)。
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↓ こっからは、フグスマで書いて゛きたんだナイ。
びっき沼の手前にある
ビオパークで
白鷺? が遠くの樹状に
羽を休めているのを見つけ
最大ズームで撮ってみた。
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ジッと身じろぎもせず
遠くを見つめて続けている
孤高の禽獣に
なんだか感じ入るものがあった。
その存在自体は
形而下的なものだが、
その存在意義は
形而上的なものである。
「なんで、あんたぁ、
そこで、トリしてはんの?!」
と問いかける
フィロソフィスト人格がいる。
と同時に、
「なんで、オレ、
今ここで、オレしてんねやろ?!」
と、この哲学爺様は
関西弁で自問しよる。
はたまた、次の瞬間、
「こらーっ!!
サギぃー!!
さぎに行かず、あとから来いッ!!」
という、
落語の八っつぁん人格も
突っ込みを入れよる。
先代三遊亭円遊の
『野ざらし』にある
大好きなフレーズである。
「サギよ。
おまえも孤独か。
生きとし生けるもの
みな独りで生まれて
独りで死んでいくものよ。
そして、この銀河鉄道に乗って・・・」
と、
なんだか宮沢の賢ちゃんみたいな
気持ちも湧いてくる。
そういや、
『銀河鉄道の夜』にも
鷺採り男が同乗してくる。
我われはみな、
永劫生き通しの魂という
銀河鉄道に乗って
さまざまな人生を
無限に経験している「存在」なんだ、
と近頃そう思えてならない。
向こうに在るサギは
未来か過去の自分の魂が
命として具現化し、
生命体と実体化して、
たまたま量子力学的な
素粒子の振る舞いのように
時空を超越して同時に
存在しているのでは
と想像してみた。
究極の処、
世界は「ウノ・ムンドス」、
つまり「ザ・ワンネス」で
「一にして全、全にして一」
なのではなかろうか。
素量子よりも極小の物から
ビッグバンに拠って
複雑多彩な宇宙構成物が生じたように、
単細胞の受精卵から分化して
複雑多彩な組織化したヒトが生じた。
種のレベルでは、
単細胞生物のアメーバから
わずか数十億年で
数十兆もの多細胞生物のヒトが生じた。
すべては「一」から
生じたのである。
自分の意識も
他者の意識も
元をただせば
「同一」のものだった。
落語にも出てくるが、
一つの饅頭を百等分しても
味が変わろうはずはない。
意識というのは
魂の属性で、
それは「唯一無二」のもので
「自他不二」のものではないか・・・。
国道の方で、
救急車のサイレンが聴こえた。
それはドップラー効果で
音源の波長を縮めながら
次第に甲高く
我が耳に響いてきた。
うん?!
狂人病院が
オレを捕まえに来た?!
なんだか、
『ドグラマグラ』の
主人公になったような気分がした。
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びっき沼の
倒木は
おととしの
大雪の重みに拠るものである。
あれから、
「誰」も手を入れるでもなく
「まんま」である。
ダレノガレ・・・何某(なにがし)
そのまんま東・・・
という名前が浮かんだ。
ヒトの脳内では、
ストレージ(蓄積)してある
語彙のメモリーバンクから
勝手にリトリーヴァル(想起)して
ランダムに言語野に送ってくる。
この倒木姿は
自然界の営み、
厳しさなぞを
感じさせる。
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自然に恵まれた
小倉寺観音の敷地内に
除染した放射性廃棄物が
仮置きされている。
フクシマならば
何処でも見る光景である。
我が家の庭にも
これが埋没されている。
ガイガーカウンターを
近づけてみれば、
おそらく針が触れるだろう。
この醜い
人為的汚物とは、
周囲の竹林、椿の花、
カタクリの群生、
満開のサクラとが
どうあっても
吊り合うものではない。
よって、
脳内では
これは「無いモノ」として
認知処理しないと
ロマンティシズムな情的には
耐え難いものである。
自然界の倒木姿は
ひとつも醜くないのに、
この放射能廃棄物の醜さは
どうだろう。
「人の為」と書いて
「人為」または
「偽(にせ/いつわり)」となる。
ヒトが人間として
精神的に志向する
「真善美聖」という価値感の
対局にある
「偽悪醜邪」の具現した形が
ここにも、そこにも、あそこにも、
フクシマ各地に存在する。
まさしく、
その愚かしさは
おぞましくもある。
これは、邪悪な巨神兵が
かりそめの眠りについている
棺のようにも見える。
『ナウシカ』じゃないが、
それが目覚めて
いつ牙を剥いて
人類を倒しに
襲ってくるやもしれぬ。
その時には、
モリ・カケ・スパ問題やら
日報隠しで揺れてる
政府や役所や自衛隊に
自国民を護れようはずもなかろう。