ソーちん、
負けちったぁ・・・(T0T)
将棋ファンのみならず、
シプコの全英優勝のように、
エポック・メイキングの慶事を
期待していた日本中が
「ドーハの悲劇」みたように
なってしまった。
ヒ~ン…( p_q)シクシク...
でも、互いに死闘を尽くした
いい試合だった。
ラグビーは一度も見なかったが、
勝敗が決したあとの
「ノーサイド」という言葉は
好きである。
歴史的対局から一夜過ぎて、
いろんな事をも
考えさせられた。
人生、それが大切なのである…。
***
完全を目標となし
努力するそのプロセスが
大切といふか
碧水歌
人生の最終結果が
「死ぬこと」だとすれば、
人生とは「プロセス(過程)そのもの」
なのである。
完全や完璧を目標とするのはいいが、
しょせん人は神ではない。
それに捕らわれると、
潔癖症や完全癖という
強迫的な心性に陥って
自身を苦しめることになる。
人生は、いつでも、どこでも、
満点を取る必要はないのだ。
激闘の敗戦から一夜あけて、
つらつら惟みるに、
いい棋戦だったなぁ・・・と、
思えることが多くある。
新聞の【観戦記】風に
時系列で振り返ると・・・
まず、ソータが
手馴れた必勝型の
「角代わり」戦法を用いず、
めったに指さない「矢倉」戦法を用い、
しかも、解説の九段が
「これは研究しようのないほど
変化が多くて難しい
50年前からある古いものです」
とのことだった。
その第一人者というのが、
大山康晴・十五世名人で、
ソータは小学生の頃から
その棋譜大全を愛読していた。
中2のプロ・デヴュー戦での
元名人ヒフミンとの一局でも、
「加藤先生から矢倉を教わろうと
相矢倉にしました」
と、堂々と述べて勝利し、
「神武この方以来の天才」ヒフミンを
驚嘆させた。
「タイトル挑戦者決定戦」
という一大勝負に、
ソータがこの難解かつ
自身が長らく研究してきた
「矢倉」を持ってきて、
しかも「新手」「奇手」を指したのは、
先人たちがなし得なかった
さらなる進化形をあえて実戦で
試してみた、とも考えられる。
一局内でよく用いられる
怖くてブルッてしまいそうな
「勇気ある踏み込み」
という一手を、
ソータは棋戦に賭して
採用したのである。
この、着想は
やはり天才ならではの
“ブレイブ・ストーリー”で
魅了されるものである。
ユングはこういった
個性化のプロセスを
「英雄」的行為と言った。
たしかに、
安全策は取らず、
己れを賭して可能性を追求し、
誰もが為し得なかったものを
発見し得るのが「英雄」なのである。
それは、
天才のみに許される
「孤高の道」でもあるのだ。
シブコが好きなのも、
「恐れずに攻める」という
リスキーなゲーム・スタンスである。
成功すれば、スマイル。
失敗すれば、涙・・・
なのである。
iPSでノーベル賞の山中先生は、
役に立たない研究と看做されて
「ジャマナカ」と陰口を
叩かれたことがあるという(笑)。
凡人の我々でも、
こうした天才たちの
攻めのスタイルは
その片鱗でも
真似でもいいから
してみたいものだなぁ・・・と、
思わされた。
昨日は大敗ではなく、
最後は、どちらも
「詰むや詰まざるや」で
AI評価では最終盤に
ソータに+1000で優勢になっていたが、
相手の詰み筋を見逃して
そこを竜王がさすがに見つけて
勝ちを拾ったような惜敗だった。
いずれにせよ、
トップ・プロのみが見せうる
超高度な闘いだったのだ。
それは、負けたとはいえ、
ソータがデヴュー前に
言っていた、プロに相応しい
「見せる将棋」「魅せる将棋」
そのものであった。
事実、コメントでは、
「もう、泣きそう・・・」
「心臓バクバク・・・」
「もう十分に1000円の元とれた」
「最高の対局でした」
「ソーちゃん。ありがとう」
「楽しませてもらった」
という激評が
何千と投稿された。
♪ 吹けば飛ぶよーな
将棋の駒に~
懸けた命を
笑わば笑え~ ♪
たかがボード・ゲームの
将棋ではあるが、
それを愛し、それを信じ、
それに命を懸けている
棋士たちの純粋な闘いは、
ウソのない「真善美聖」を充たす
ドラマなのである。
***
コメントの中には、
アンチ・ソータもいて、
その輩(やから)たちが、
「ざまーみろ!」
「ソータ、しね!」
「ガイジ!」
なぞの最低の悪口雑言を投稿し、
棋士どうしの真剣な対局に
醜い汚泥をなすり付けた。
無論、それらのKYで
不道徳な発言者に対する
圧倒的なバッシングも
対抗としてあったが、
そうして炎上すること事態を狙ってるのも
不愉快に思えて、コメ欄を封鎖した。
「ガイジ」とは、
「障害児」という意味の
最悪の差別用語である。
ソータが、イチローのような
「サヴァン症候群」ではないか
という説から、
その超天才の偏りを
「発達障害」だと言挙げて蔑むことで
自らの劣等性を補償しようという
「自我防衛機制」の心理なのだが、
たいていは、低脳者のタワゴトなのである。
他を思ふ思ひやりごころうすれゆき
エゴ人となる
かなしからずや
碧水歌
「世の中は、清むと濁るで大違い。
ハケに毛があり。ハゲに毛がなし」
「エコ人」はいいが、
「エゴ人」は
漁礁と一緒に
日本海溝に沈めたい(笑)。
頭のわるい愚かさと
も一つ人間としての愚かさと
二つあるといふ
飄 水
「ねたみ・そねみ・ひがみ」の
「三み」は醜く、愚かだねい・・・。
いい大人に接することが出来る子供
しあはせなりと
改めておもふ
聞いてくれぬ
聞かうともせぬこと重なり
かなしさ怒りの行動となるか
碧水歌
きっと、可哀想な、
悲惨な生育歴が
背景にあるんだろう、
と思う。
相手になつてもらへることのよろこびを
そのまま見せて笑むか
赤んぼ
耳が聞くことばが
胸をさすことあり
こころをいやすことばもありぬ
碧水歌
言葉というのは、
その人を生かしもし、
殺しもするものである。
・・・そんなことも
考えさせられた。
双方で8時間の
持ち時間の棋戦だったので、
一手に30分以上もかけている時には、
手元でペン字の練習をしていた。
レパートリーには
しなくとも、
ピアノ曲の勉強も欠かさない。
30年来、愛読している
ガイドブックをテキストにして、
ユーチューブの楽譜付き演奏を見ながら
シューベルト晩年の遺作ソナタの
勉強をした。
今年のマイブームで、
プチ・ハルキストになったので、
小澤征爾との対談本を
アマゾンに注文した。
負けちったぁ・・・(T0T)
将棋ファンのみならず、
シプコの全英優勝のように、
エポック・メイキングの慶事を
期待していた日本中が
「ドーハの悲劇」みたように
なってしまった。
ヒ~ン…( p_q)シクシク...
でも、互いに死闘を尽くした
いい試合だった。
ラグビーは一度も見なかったが、
勝敗が決したあとの
「ノーサイド」という言葉は
好きである。
歴史的対局から一夜過ぎて、
いろんな事をも
考えさせられた。
人生、それが大切なのである…。
***
完全を目標となし
努力するそのプロセスが
大切といふか
碧水歌
人生の最終結果が
「死ぬこと」だとすれば、
人生とは「プロセス(過程)そのもの」
なのである。
完全や完璧を目標とするのはいいが、
しょせん人は神ではない。
それに捕らわれると、
潔癖症や完全癖という
強迫的な心性に陥って
自身を苦しめることになる。
人生は、いつでも、どこでも、
満点を取る必要はないのだ。
激闘の敗戦から一夜あけて、
つらつら惟みるに、
いい棋戦だったなぁ・・・と、
思えることが多くある。
新聞の【観戦記】風に
時系列で振り返ると・・・
まず、ソータが
手馴れた必勝型の
「角代わり」戦法を用いず、
めったに指さない「矢倉」戦法を用い、
しかも、解説の九段が
「これは研究しようのないほど
変化が多くて難しい
50年前からある古いものです」
とのことだった。
その第一人者というのが、
大山康晴・十五世名人で、
ソータは小学生の頃から
その棋譜大全を愛読していた。
中2のプロ・デヴュー戦での
元名人ヒフミンとの一局でも、
「加藤先生から矢倉を教わろうと
相矢倉にしました」
と、堂々と述べて勝利し、
「神武この方以来の天才」ヒフミンを
驚嘆させた。
「タイトル挑戦者決定戦」
という一大勝負に、
ソータがこの難解かつ
自身が長らく研究してきた
「矢倉」を持ってきて、
しかも「新手」「奇手」を指したのは、
先人たちがなし得なかった
さらなる進化形をあえて実戦で
試してみた、とも考えられる。
一局内でよく用いられる
怖くてブルッてしまいそうな
「勇気ある踏み込み」
という一手を、
ソータは棋戦に賭して
採用したのである。
この、着想は
やはり天才ならではの
“ブレイブ・ストーリー”で
魅了されるものである。
ユングはこういった
個性化のプロセスを
「英雄」的行為と言った。
たしかに、
安全策は取らず、
己れを賭して可能性を追求し、
誰もが為し得なかったものを
発見し得るのが「英雄」なのである。
それは、
天才のみに許される
「孤高の道」でもあるのだ。
シブコが好きなのも、
「恐れずに攻める」という
リスキーなゲーム・スタンスである。
成功すれば、スマイル。
失敗すれば、涙・・・
なのである。
iPSでノーベル賞の山中先生は、
役に立たない研究と看做されて
「ジャマナカ」と陰口を
叩かれたことがあるという(笑)。
凡人の我々でも、
こうした天才たちの
攻めのスタイルは
その片鱗でも
真似でもいいから
してみたいものだなぁ・・・と、
思わされた。
昨日は大敗ではなく、
最後は、どちらも
「詰むや詰まざるや」で
AI評価では最終盤に
ソータに+1000で優勢になっていたが、
相手の詰み筋を見逃して
そこを竜王がさすがに見つけて
勝ちを拾ったような惜敗だった。
いずれにせよ、
トップ・プロのみが見せうる
超高度な闘いだったのだ。
それは、負けたとはいえ、
ソータがデヴュー前に
言っていた、プロに相応しい
「見せる将棋」「魅せる将棋」
そのものであった。
事実、コメントでは、
「もう、泣きそう・・・」
「心臓バクバク・・・」
「もう十分に1000円の元とれた」
「最高の対局でした」
「ソーちゃん。ありがとう」
「楽しませてもらった」
という激評が
何千と投稿された。
♪ 吹けば飛ぶよーな
将棋の駒に~
懸けた命を
笑わば笑え~ ♪
たかがボード・ゲームの
将棋ではあるが、
それを愛し、それを信じ、
それに命を懸けている
棋士たちの純粋な闘いは、
ウソのない「真善美聖」を充たす
ドラマなのである。
***
コメントの中には、
アンチ・ソータもいて、
その輩(やから)たちが、
「ざまーみろ!」
「ソータ、しね!」
「ガイジ!」
なぞの最低の悪口雑言を投稿し、
棋士どうしの真剣な対局に
醜い汚泥をなすり付けた。
無論、それらのKYで
不道徳な発言者に対する
圧倒的なバッシングも
対抗としてあったが、
そうして炎上すること事態を狙ってるのも
不愉快に思えて、コメ欄を封鎖した。
「ガイジ」とは、
「障害児」という意味の
最悪の差別用語である。
ソータが、イチローのような
「サヴァン症候群」ではないか
という説から、
その超天才の偏りを
「発達障害」だと言挙げて蔑むことで
自らの劣等性を補償しようという
「自我防衛機制」の心理なのだが、
たいていは、低脳者のタワゴトなのである。
他を思ふ思ひやりごころうすれゆき
エゴ人となる
かなしからずや
碧水歌
「世の中は、清むと濁るで大違い。
ハケに毛があり。ハゲに毛がなし」
「エコ人」はいいが、
「エゴ人」は
漁礁と一緒に
日本海溝に沈めたい(笑)。
頭のわるい愚かさと
も一つ人間としての愚かさと
二つあるといふ
飄 水
「ねたみ・そねみ・ひがみ」の
「三み」は醜く、愚かだねい・・・。
いい大人に接することが出来る子供
しあはせなりと
改めておもふ
聞いてくれぬ
聞かうともせぬこと重なり
かなしさ怒りの行動となるか
碧水歌
きっと、可哀想な、
悲惨な生育歴が
背景にあるんだろう、
と思う。
相手になつてもらへることのよろこびを
そのまま見せて笑むか
赤んぼ
耳が聞くことばが
胸をさすことあり
こころをいやすことばもありぬ
碧水歌
言葉というのは、
その人を生かしもし、
殺しもするものである。
・・・そんなことも
考えさせられた。
双方で8時間の
持ち時間の棋戦だったので、
一手に30分以上もかけている時には、
手元でペン字の練習をしていた。
レパートリーには
しなくとも、
ピアノ曲の勉強も欠かさない。
30年来、愛読している
ガイドブックをテキストにして、
ユーチューブの楽譜付き演奏を見ながら
シューベルト晩年の遺作ソナタの
勉強をした。
今年のマイブームで、
プチ・ハルキストになったので、
小澤征爾との対談本を
アマゾンに注文した。