写真はシャングリラの町中で出会った子供。おかあさんはチベット族の色鮮やかなエプロンをしてリヤカーを押しながら、飲食店の廃油を集める廃油回収業者だ。とても大変そうだけど、お母さんを尊敬する子供のまなざしがやさしかった。
【いいひと】
一連の熱に浮かれたような動きに対して、冷静さを保つよう、呼びかける記事もあらわれた。7月3日の『春城晩報』では「馬驊は人である。神ではない」と切々と説いている。曰く、これに応ずる人は平地の50%の酸素量しかない高地で生活しなければならないし、眠る場所も四方が風に煽られる帳の中であることを覚悟せねばならず、背後にはプレッシャーもあるだろう、ときわめて現実的な意見を述べ「できることからすればよい」と締めくくっている。
むろん、現実的な動きもあった。昆明の靴店の元締めである「玉帯河靴城」(靴の卸問屋が並ぶ専門市場)からは貧しい家の学習を助けるためとして「500足の靴と数百元」の寄付がなされた。このような寄付は各方面から寄せられている。
「馬驊に続け」運動がこれほどすばやく政府主導で起こったのは、ちょうど中国では年度末にあたる夏休みであることと関係が深いように思われる。中国の新年度は9月から。したがって6月末の時期は卒業生が進路を最終決定する時期にあたるのだ。
中国の政策に「貧しい」少数民族の住む中国西部地区に対して、毎年、全国各地から若者を公募し、派遣する活動がある。雲南では7月中旬に上海、安徽省と雲南省からよりすぐられた340名の大学生が、3日間、昆明で訓練を受けた後、省内の民族貧困地区(と、新聞には書かれている。)へ1~2年間、派遣される。その間、省から毎月600元の生活費が支給される。
その公募の時期だったのだ。
現にその年の7月5日には、通常の手続きをへて決まった貧困地区へ派遣される教育者のために壮行会が雲南の大学構内で催された。省内2100名の応募者の中から厳選された229名の優秀な若者たちが1~2年間、雲南省各地にある73カ所の貧困重点地区へ志願して赴く。その壮行会の黒板には当然のように「私は馬驊の道をいきます」の文字が躍っていた。
つまり上海で選ばれた周文彬は、例年、上海から雲南省へと派遣される137名の志願者に対して、今年限りに付け加えられた138番目の特別枠の志願者、という位置づけなのだった。彼の言葉からも一般的に志願者となる人は、将来、中国共産党入りが見込まれる学生幹部か、奨学生で、きわめて政治的、経済的な意味合いが強い特殊な人々による活動であることが読み取れる。この特別枠を決め、大々的にマスコミを通じて呼びかけた宣伝効果は今後も絶大な力を発揮するだろう。
さらに彼が行方不明となって2ヶ月がたった8月17日には雲南省教育庁が、省共産党員と共青団員らに対して「馬驊同志のことを学ぶよう」通達を出した。名付けて「馬驊同志学習活動」。まるで文革時期にさかのぼってしまったかのような運動名が冠せられていた。
5ヶ月後の11月には、3000名規模の馬驊同志の活動報告会が連日、各大学、高校などで開かれるようになった。主催は省委員会宣伝部。その中身は次の通りだった。
「当代青年の人生の座標」「チベット族人民のよき師であり、『益をもたらす友』」「高原の様子」「馬驊とすごした日々」「馬驊の足跡を追い、前進する」の5つ。話が進むにつれ、大声で泣き出す人々が続出した、という。
「馬驊精神というのは、つまり艱苦をおそれず、探索し、無私奉献で見返りを求めないということだ。人生の境にある優秀品質を追求し続ける努力をすることだ。」
「心は群衆とともにあり、真の心で民を愛し、つねに群衆の苦しみに関心をむける高尚な心を養うことだ。」
「つねに進取を極め、学習につとめ、愛し、敬い、書を教え、人を育み、崇高なる人となり、徳をもって範をしめす、ということだ」と報告会は締めくくられる。
彼の事績は今や本となり、テレビで放映され、インターネットでも馬驊の事績は上位のクリック数をキープし、テレビの30分番組はそのまま、インターネットでも見られる仕組みとして、現在でも活動は続いている。
そして、本当の彼の姿は、はるか遠いものとなり、明永村の村民も「彼はいい人でした」という型どおりの言葉を連ねるのみとなってしまった。
(この章、おわり)
感想、ご意見などございましたら、なんでもお聞かせください。励みになりますので。
【いいひと】
一連の熱に浮かれたような動きに対して、冷静さを保つよう、呼びかける記事もあらわれた。7月3日の『春城晩報』では「馬驊は人である。神ではない」と切々と説いている。曰く、これに応ずる人は平地の50%の酸素量しかない高地で生活しなければならないし、眠る場所も四方が風に煽られる帳の中であることを覚悟せねばならず、背後にはプレッシャーもあるだろう、ときわめて現実的な意見を述べ「できることからすればよい」と締めくくっている。
むろん、現実的な動きもあった。昆明の靴店の元締めである「玉帯河靴城」(靴の卸問屋が並ぶ専門市場)からは貧しい家の学習を助けるためとして「500足の靴と数百元」の寄付がなされた。このような寄付は各方面から寄せられている。
「馬驊に続け」運動がこれほどすばやく政府主導で起こったのは、ちょうど中国では年度末にあたる夏休みであることと関係が深いように思われる。中国の新年度は9月から。したがって6月末の時期は卒業生が進路を最終決定する時期にあたるのだ。
中国の政策に「貧しい」少数民族の住む中国西部地区に対して、毎年、全国各地から若者を公募し、派遣する活動がある。雲南では7月中旬に上海、安徽省と雲南省からよりすぐられた340名の大学生が、3日間、昆明で訓練を受けた後、省内の民族貧困地区(と、新聞には書かれている。)へ1~2年間、派遣される。その間、省から毎月600元の生活費が支給される。
その公募の時期だったのだ。
現にその年の7月5日には、通常の手続きをへて決まった貧困地区へ派遣される教育者のために壮行会が雲南の大学構内で催された。省内2100名の応募者の中から厳選された229名の優秀な若者たちが1~2年間、雲南省各地にある73カ所の貧困重点地区へ志願して赴く。その壮行会の黒板には当然のように「私は馬驊の道をいきます」の文字が躍っていた。
つまり上海で選ばれた周文彬は、例年、上海から雲南省へと派遣される137名の志願者に対して、今年限りに付け加えられた138番目の特別枠の志願者、という位置づけなのだった。彼の言葉からも一般的に志願者となる人は、将来、中国共産党入りが見込まれる学生幹部か、奨学生で、きわめて政治的、経済的な意味合いが強い特殊な人々による活動であることが読み取れる。この特別枠を決め、大々的にマスコミを通じて呼びかけた宣伝効果は今後も絶大な力を発揮するだろう。
さらに彼が行方不明となって2ヶ月がたった8月17日には雲南省教育庁が、省共産党員と共青団員らに対して「馬驊同志のことを学ぶよう」通達を出した。名付けて「馬驊同志学習活動」。まるで文革時期にさかのぼってしまったかのような運動名が冠せられていた。
5ヶ月後の11月には、3000名規模の馬驊同志の活動報告会が連日、各大学、高校などで開かれるようになった。主催は省委員会宣伝部。その中身は次の通りだった。
「当代青年の人生の座標」「チベット族人民のよき師であり、『益をもたらす友』」「高原の様子」「馬驊とすごした日々」「馬驊の足跡を追い、前進する」の5つ。話が進むにつれ、大声で泣き出す人々が続出した、という。
「馬驊精神というのは、つまり艱苦をおそれず、探索し、無私奉献で見返りを求めないということだ。人生の境にある優秀品質を追求し続ける努力をすることだ。」
「心は群衆とともにあり、真の心で民を愛し、つねに群衆の苦しみに関心をむける高尚な心を養うことだ。」
「つねに進取を極め、学習につとめ、愛し、敬い、書を教え、人を育み、崇高なる人となり、徳をもって範をしめす、ということだ」と報告会は締めくくられる。
彼の事績は今や本となり、テレビで放映され、インターネットでも馬驊の事績は上位のクリック数をキープし、テレビの30分番組はそのまま、インターネットでも見られる仕組みとして、現在でも活動は続いている。
そして、本当の彼の姿は、はるか遠いものとなり、明永村の村民も「彼はいい人でした」という型どおりの言葉を連ねるのみとなってしまった。
(この章、おわり)
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