写真は、昆明でよく見かける犬。近年は中型犬も増えていたが、3年前は小型犬を室内で飼うのが一般的だった。花鳥市場に行くと、犬猫用の首輪から洋服まで、ペット関連のグッズがずらり。2008年10月25日付け朝日新聞では、雲南弥勒県(昆明よりバスで30分の距離)で狂犬病が相次いだため、飼われている犬猫、1万1000匹以上を殺処分した、とのことである。かわいがりぶりを知っているだけに、胸の痛む記事である。ただし、我が家では狂犬病が当時からはやっていたため、けっして動物には近づかないように気を配ってはいた。
(以下の本文とは関係ない写真ですが、時事ネタなので載せました。)
【正統派のポイント】
さて現在、雲南の過橋米線専門店を食べ歩くと、生の薄切り肉以外に、唐揚げの薄切り肉をトッピングする店もときおり、見かけます。それらの店の看板で共通するのが「正宗・蒙自過橋米線」の文字でした。しかし、正統派の根拠が、まさか、あの、生肉や野菜よりも存在感の薄い、さりげなく置かれた「パリパリ唐揚げ」にあるとは、昆明で一年間、食べ続けていた当時は、思い至りませんでした。
振り返ってみると、醤油と酒でしっとりと味付けされたパリパリ唐揚げはさっぱりとしたミーシエンにアクセントを添え、なかなかの名コンビ。それが生肉を取り入れるよりも先に決まっていたと、はからずも蒙自説は語っているのです。
このように伝承に派手さがなく、唐揚げのなじみ具合が尋常ではない点からも建水説には元祖の風格が漂っているように、私には感じられるのです。
さらに2007年に蒙自県(人民政府県)長の陳強氏が家譜を所蔵する劉世清から聞いた話では、李景椿が店に来るときには、必ず豚の背肉を持参し、薄切りにするように毎回、指示したと、伝えられていたそうです。そのような、細やかな話まで口伝えされている点が、ますます実話めいています。
【山西省で善政した李景椿】
民国9(1920)年発行の「建水県地方志」をひもとくと、李景椿が実在したことがわかり、さらに驚きました。道光乙未の年に県でただ一人進士に合格し、その後、山西省宝徳州に赴任して、きちんとした政治をした、と評価される人物です。また同じ本の山川の項には、山、河、泉、井戸に続いて橋の説明があり、そこに我流のミーシエンを食べるために渡ったと本人が語っていた「鎖龍橋」が記されていました。
ただし、その橋は(建水)城より北に90里、つまり約45キロ地点の東山にあるとのこと。この距離では毎日、建水城内の店に通うには無理があるのですが。
ただ、山西省は餃子の具も羊肉で作るほどの羊の産地。「羊のしゃぶしゃぶ」の本場でもあります。生肉を熱々のスープにくぐらせるアイディアを閃かせるには、李景椿が赴任した場所は格好の地だったといえるでしょう。
進士ともなったものが、召使のつくる朝食ではなく、外でふらりと買い食いするというのも不思議な気はしますが、聞き取り調査をした陳氏は、これこそ真実の話では、と推測しています。
おそらく街の名士に仮託された話なのでしょうが、だとしても過橋米線のルーツが、地元の食習慣から自然に生まれたものではなく、また近くにある南方の刺身文化からでもなく、はるかに遠い北方のしゃぶしゃぶ文化からもたらされたと、蒙自説がひそかに主張しているのも興味深いところです。 (つづく)
(以下の本文とは関係ない写真ですが、時事ネタなので載せました。)
【正統派のポイント】
さて現在、雲南の過橋米線専門店を食べ歩くと、生の薄切り肉以外に、唐揚げの薄切り肉をトッピングする店もときおり、見かけます。それらの店の看板で共通するのが「正宗・蒙自過橋米線」の文字でした。しかし、正統派の根拠が、まさか、あの、生肉や野菜よりも存在感の薄い、さりげなく置かれた「パリパリ唐揚げ」にあるとは、昆明で一年間、食べ続けていた当時は、思い至りませんでした。
振り返ってみると、醤油と酒でしっとりと味付けされたパリパリ唐揚げはさっぱりとしたミーシエンにアクセントを添え、なかなかの名コンビ。それが生肉を取り入れるよりも先に決まっていたと、はからずも蒙自説は語っているのです。
このように伝承に派手さがなく、唐揚げのなじみ具合が尋常ではない点からも建水説には元祖の風格が漂っているように、私には感じられるのです。
さらに2007年に蒙自県(人民政府県)長の陳強氏が家譜を所蔵する劉世清から聞いた話では、李景椿が店に来るときには、必ず豚の背肉を持参し、薄切りにするように毎回、指示したと、伝えられていたそうです。そのような、細やかな話まで口伝えされている点が、ますます実話めいています。
【山西省で善政した李景椿】
民国9(1920)年発行の「建水県地方志」をひもとくと、李景椿が実在したことがわかり、さらに驚きました。道光乙未の年に県でただ一人進士に合格し、その後、山西省宝徳州に赴任して、きちんとした政治をした、と評価される人物です。また同じ本の山川の項には、山、河、泉、井戸に続いて橋の説明があり、そこに我流のミーシエンを食べるために渡ったと本人が語っていた「鎖龍橋」が記されていました。
ただし、その橋は(建水)城より北に90里、つまり約45キロ地点の東山にあるとのこと。この距離では毎日、建水城内の店に通うには無理があるのですが。
ただ、山西省は餃子の具も羊肉で作るほどの羊の産地。「羊のしゃぶしゃぶ」の本場でもあります。生肉を熱々のスープにくぐらせるアイディアを閃かせるには、李景椿が赴任した場所は格好の地だったといえるでしょう。
進士ともなったものが、召使のつくる朝食ではなく、外でふらりと買い食いするというのも不思議な気はしますが、聞き取り調査をした陳氏は、これこそ真実の話では、と推測しています。
おそらく街の名士に仮託された話なのでしょうが、だとしても過橋米線のルーツが、地元の食習慣から自然に生まれたものではなく、また近くにある南方の刺身文化からでもなく、はるかに遠い北方のしゃぶしゃぶ文化からもたらされたと、蒙自説がひそかに主張しているのも興味深いところです。 (つづく)