写真は焼豆腐の付けタレ。パウダー状のもの。あらかじめ店が刻み唐辛子と塩、山椒などを混ぜてくれたパウダーや、山椒、刻み唐辛子、菜種油、ハッカ、椒塩(炒った山椒を細かく砕いて塩と混ぜたもの)、グルタミン酸ソーダなどを、客が適当に混ぜて付けてにして、焼豆腐に絡めてぱくりとほお張る。
【雲南料理の発祥地・滇南】
しかし、なぜ滇南にばかり食文化が栄えたのだろうか。
その理由は明代の政策が深く関わっている。雲南を制圧した明の朱元璋は、中国各地から集めた屯田兵を南京へ一度、集めた後、雲南へと送り込んだ。そのため明代に中国各地で広まった食文化が滇南に移植され、清末には、滇南の地が商業の中心地となったことで、この地で栄え極まったのである。
また、中国では雲南に限らず各地で様々な種類の臭豆腐が作られているが、その発明者は、じつは明朝を興した朱元璋だ、という伝説もある。
朱元璋は、歴代王の中でもとくに貧しく苦労人だった。若いころは乞食和尚もしていたという。その頃、どこかの家が捨てた豆腐を拾い、委細かまわず、油で炒めて一口食べたら、たまらなくうまかった。
後に立身出世の階段を駆け上がり、軍事統帥として軍隊が勝利して故郷の安徽省に立ち寄った時のこと。あまりのうれしさに、全軍あげて臭豆腐を一緒に食べ祝うように命じ、臭豆腐の名が広まった、という。
(宋代の本に、豆腐を発明したのは前漢の淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)という説がある。その伝承をもとに故地の安徽省では現在、豆腐発祥の地として、毎年「豆腐節」を開催しているそうだ。ともかく中国で安徽省といえば、豆腐、のようです。)
どうやら明代初期と臭豆腐の発明と伝播には、何らかの関係があるらしい。
「石屏県志」によると、石屏焼豆腐は明朝初年から生産が始まり、清末には貢品となっていたそうだ。(梁玉虹著『雲南小吃』雲南科技出版社、2003年)近年では、毎年11月末ごろに「石屏豆腐節」(豆腐祭り)が開かれている。豆腐工場は200家を数え、年産2500トンほどが生産されている。
【雲南料理の発祥地・滇南】
しかし、なぜ滇南にばかり食文化が栄えたのだろうか。
その理由は明代の政策が深く関わっている。雲南を制圧した明の朱元璋は、中国各地から集めた屯田兵を南京へ一度、集めた後、雲南へと送り込んだ。そのため明代に中国各地で広まった食文化が滇南に移植され、清末には、滇南の地が商業の中心地となったことで、この地で栄え極まったのである。
また、中国では雲南に限らず各地で様々な種類の臭豆腐が作られているが、その発明者は、じつは明朝を興した朱元璋だ、という伝説もある。
朱元璋は、歴代王の中でもとくに貧しく苦労人だった。若いころは乞食和尚もしていたという。その頃、どこかの家が捨てた豆腐を拾い、委細かまわず、油で炒めて一口食べたら、たまらなくうまかった。
後に立身出世の階段を駆け上がり、軍事統帥として軍隊が勝利して故郷の安徽省に立ち寄った時のこと。あまりのうれしさに、全軍あげて臭豆腐を一緒に食べ祝うように命じ、臭豆腐の名が広まった、という。
(宋代の本に、豆腐を発明したのは前漢の淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)という説がある。その伝承をもとに故地の安徽省では現在、豆腐発祥の地として、毎年「豆腐節」を開催しているそうだ。ともかく中国で安徽省といえば、豆腐、のようです。)
どうやら明代初期と臭豆腐の発明と伝播には、何らかの関係があるらしい。
「石屏県志」によると、石屏焼豆腐は明朝初年から生産が始まり、清末には貢品となっていたそうだ。(梁玉虹著『雲南小吃』雲南科技出版社、2003年)近年では、毎年11月末ごろに「石屏豆腐節」(豆腐祭り)が開かれている。豆腐工場は200家を数え、年産2500トンほどが生産されている。