写真はタイ族が暮らす景洪市からほど近いマンクイ村。タイ族が好む工芸品や刺繍の工場など近代的設備と農村の風景が広がっていた。売り場はあるのに売り子はおらず、寺がタイ風に金ぴかな不思議な調和のある村だった。
【象の飼育統括大臣の地位の高さ】
シーサンパンナの歴史書『泐史』には、傣暦542年(宋淳熙7年、西暦1180年)パーマ王が周囲の国々を平定し、周囲より推戴される形で初代のシーサンパンナ王となったときの記念品リストがあります。
人民844万人、白象9000頭、馬97000匹、様々な宝石を埋め込んだ塔(嵌宝石塔)7座・・・。
このようにタイ族にとって象は国力を量る重要な指標でもあったのです。しかも労働力としての象ではなく、王の権威づけとしての白象で頭数が表されていることから、一般の象を含めた象の頭数の多さを連想させます。
1953年に中華人民共和国政府がシーサンパンナのタイ族の調査した資料を見ると、中国の支配が及ぶ以前のタイ族の社会が見えてきます。(※1)
ここでは王のもとに家臣団、その下に彼らに仕える人々がいて、仕事の内容はインドのカースト制の影響があるのか100以上もの職種に分かれていました。水くみ、料理人、傘を差す係、矛や槍持ち、王の葬式時の泣く係などの専業労働があるなかで、象の世話係もありました。
しかも、象の飼育のための専業のムラさえあったのです。複数箇所に点在する象の飼育ムラの統括者は、家臣団の最高位である裁判所を司る官職に次ぐ2番目という高位でした。その名は「召竜納掌」。
ちなみに馬の飼育を統括する官職は上から20番目。
このことから象の飼育がいかに国の根幹にかかわっていたかがわかります。戦争、祭りの権威づけ、他国への贈答物として国の命運を左右する最重要なものだったためでしょう。
(つづく)
【象の飼育統括大臣の地位の高さ】
シーサンパンナの歴史書『泐史』には、傣暦542年(宋淳熙7年、西暦1180年)パーマ王が周囲の国々を平定し、周囲より推戴される形で初代のシーサンパンナ王となったときの記念品リストがあります。
人民844万人、白象9000頭、馬97000匹、様々な宝石を埋め込んだ塔(嵌宝石塔)7座・・・。
このようにタイ族にとって象は国力を量る重要な指標でもあったのです。しかも労働力としての象ではなく、王の権威づけとしての白象で頭数が表されていることから、一般の象を含めた象の頭数の多さを連想させます。
1953年に中華人民共和国政府がシーサンパンナのタイ族の調査した資料を見ると、中国の支配が及ぶ以前のタイ族の社会が見えてきます。(※1)
ここでは王のもとに家臣団、その下に彼らに仕える人々がいて、仕事の内容はインドのカースト制の影響があるのか100以上もの職種に分かれていました。水くみ、料理人、傘を差す係、矛や槍持ち、王の葬式時の泣く係などの専業労働があるなかで、象の世話係もありました。
しかも、象の飼育のための専業のムラさえあったのです。複数箇所に点在する象の飼育ムラの統括者は、家臣団の最高位である裁判所を司る官職に次ぐ2番目という高位でした。その名は「召竜納掌」。
ちなみに馬の飼育を統括する官職は上から20番目。
このことから象の飼育がいかに国の根幹にかかわっていたかがわかります。戦争、祭りの権威づけ、他国への贈答物として国の命運を左右する最重要なものだったためでしょう。
(つづく)