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二度目のロンドン54 おもむきのあるソールズベリー大聖堂②

2024-11-03 15:21:12 | Weblog
ソールズベリー大聖堂では、不思議な彫刻がそこかしこに見られる。リアリティあふれる苦悶の表情を浮かべる男は何者? 少なくとも彫刻家の身近にモデルはいただろう。それが何を模していたのか…。

【大聖堂のお引越し】
ソールズベリー大聖堂には、聖堂の歴史が丁寧に解説されたパネルが展示されていました。それを読むと、「オールドセーラム」にあった大聖堂がこの地に移転した理由の一つには王と教会との対立があったようです。展示をヒントに歴史を調べるとおおよそは以下の通り。

プランタジネット朝のジョン王(在位1199年~1216年)はフランスとの戦に負け続け、さらに1209年には教皇から破門され(1213年には教皇からの要求を呑む形で破門を解かれる)弱り目に祟り目状態。さらに戦費調達を貴族らに強いたことから、貴族らが自らの権利を守るために1215年につくった「マグナカルタ(大憲章)」を受け入れる事態となりました
(国王の権利に制限を設けたことなどを定めた文書。のちに英国憲法のもっとも基本的な部分を担うものとなり、アメリカ合衆国憲法にも影響を与えました。私の個人的な思い出としては高校で世界史を学んだ時、意味はわからないけど印象的な単語の筆頭格でした)

そのころのオールドセーラムの司教リチャード・プーアは大聖堂の拡張を願ったものの、王は許可せず。そこで王を飛び越して教皇からの許可を取り付けて、ジョン王の次のヘンリー3世の時代に、プーア自身の領地に大聖堂を建てて移転したのです
(1220年より新大聖堂の基礎工事、開始。1226年に旧大聖堂は正式に解散。)

それにともなって、住民も新しい大聖堂のほうへと移動し、今日までソールズベリーの街として続いています。

もう一つの移転理由は、オールドセーラムが不便だったから。風が強く、深い井戸を掘らないと水も入手できない。さらに丘の上にある要塞なので街の拡張もできない。

「(オールドセーラムの」発掘調査で多数の井戸が発見されましたが(ノルマン砦内の井戸を含む)、それらが非常に深かったため、川から上って水を運ぶよりも使用が面倒であったことが示唆されています。」

Baldwin, R. (1774). A Description of that Admirable Structure, the Cathedral Church of Salisbury. London, GB. Retrieved 3 January 2015 – via Archive.org. SUBTITLE With the 
Chapels, Monuments, Grave-Stones, and their Inscriptions. To which is prefixed, an Account of Old Sarum(英語wikipedia「old sarum」より)

との発掘調査も。

そのほかにも、ウェストミンスター寺院(1245年~14世紀末)やリンカン大聖堂(1185年以降~1311年)などが同じ時期に再建設されているので、大聖堂建設ラッシュの時代だったともいえます。司教の力が強く、王の権限が制限されたことで、建設できるほどに安定した時代となったわけです。
                             (つづく)

参考資料:
朝治啓三:講演:デイヴィッド・カーペンター「マグナ・カルタ―その歴史的意義,新視角,新史料」及び,セミナー「ヘンリ世治世 1216-1272年」―翻訳と解釈 file:///C:/Users/madok/Downloads/KU-1100-20190318-02.pdf
關西大學『文學論集』第68巻第号

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